績を担《にな》うものである。
 私は近頃|数寄屋橋外《すきやばしそと》に、虎の門|金毘羅《こんぴら》の社前に、神田|聖堂《せいどう》の裏手に、その他諸処に新設される、公園の樹木を見るよりも、通りがかりの閑地に咲く雑草の花に対して遥にいい知れぬ興味と情趣を覚えるのである。

 戸川秋骨《とがわしゅうこつ》君が『そのままの記』に霜の戸山《とやま》ヶ|原《はら》という一章がある。戸山ヶ原は旧|尾州侯御下屋舗《びしゅうこうおしもやしき》のあった処、その名高い庭園は荒されて陸軍戸山学校と変じ、附近は広漠たる射的場《しゃてきば》となっている。この辺《あたり》豊多摩郡《とよたまごおり》に属し近き頃まで杜鵑花《つつじ》の名所であったが、年々人家|稠密《ちゅうみつ》していわゆる郊外の新開町《しんかいまち》となったにかかわらず、射的場のみは今なお依然として原のままである。秋骨君|曰《いわ》く
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戸山の原は東京の近郊に珍らしい広開《こうかい》した地《ち》である。目白《めじろ》の奥から巣鴨《すがも》滝《たき》の川《がわ》へかけての平野は、さらに広い武蔵野《むさしの》の趣を残したものであろう。しかしその平野は凡《すべ》て耒耜《らいし》が加えられている。立派に耕作された畠地《はたち》である。従って田園の趣はあるが野趣に至っては乏しい。しかるに戸山の原は、原とは言えども多少の高低があり、立樹《たちき》が沢山にある。大きくはないが喬木《きょうぼく》が立ち籠《こ》めて叢林《そうりん》を為した処もある。そしてその地には少しも人工が加わっていない。全く自然のままである。もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものは此処《ここ》にそれを求むべきであろう。高低のある広い地は一面に雑草を以て蔽《おお》われていて、春は摘草《つみくさ》に児女《じじょ》の自由に遊ぶに適し、秋は雅人《がじん》の擅《ほしいまま》に散歩するに任《まか》す。四季の何時《いつ》と言わず、絵画の学生が此処《ここ》其処《そこ》にカンヴァスを携《たずさ》えて、この自然を写しているのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。最も健全なる遊覧地である。その自然と野趣とは全く郊外の他《た》の場所に求むべからざるものである。凡《およ》そ今日の勢、いやしくも余地あれば其処に建築を起す、然らずともこれに耒耜を加うるに躊躇《ちゅうちょ》しない。
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