》、深川《ふかがわ》の小名木川辺《おなぎがわへん》の川筋には荷足船《にたりぶね》で人を渡す小さな渡場が幾個所もある。
鉄道の便宜は近世に生れたわれわれの感情から全く羈旅《きりょ》とよぶ純朴なる悲哀の詩情を奪去《うばいさ》った如く、橋梁はまた遠からず近世の都市より渡船なる古めかしい緩《ゆるや》かな情趣を取除いてしまうであろう。今日世界の都会中渡船なる古雅の趣を保存している処は日本の東京のみではあるまいか。米国の都市には汽車を渡す大仕掛けの渡船があるけれど、竹屋の渡しの如く、河水《かわみず》に洗出《あらいだ》された木目《もくめ》の美しい木造《きづく》りの船、樫《かし》の艪《ろ》、竹の棹《さお》を以てする絵の如き渡船はない。私は向島の三囲《みめぐり》や白髭《しらひげ》に新しく橋梁の出来る事を決して悲しむ者ではない。私は唯両国橋の有無《ゆうむ》にかかわらずその上下《かみしも》に今なお渡場が残されてある如く隅田川その他の川筋にいつまでも昔のままの渡船のあらん事を希《こいねが》うのである。
橋を渡る時|欄干《らんかん》の左右からひろびろした水の流れを見る事を喜ぶものは、更に岸を下《くだ》って水上に浮び鴎《かもめ》と共にゆるやかな波に揺《ゆ》られつつ向《むこう》の岸に達する渡船の愉快を容易に了解する事が出来るであろう。都会の大道には橋梁の便あって、自由に車を通ずるにかかわらず、殊更《ことさら》岸に立って渡船を待つ心は、丁度表通に立派なアスファルト敷《じき》の道路あるにかかわらず、好んで横町や路地の間道《かんどう》を抜けて見る面白さとやや似たものであろう。渡船は自動車や電車に乗って馳《は》せ廻る東京市民の公生涯《こうしょうがい》とは多くの関係を持たない。しかし渡船は時間の消費をいとわず重い風呂敷包《ふろしきづつ》みなぞ背負《せお》ってテクテクと市中《しちゅう》を歩いている者どもには大《だい》なる休息を与え、またわれらの如き閑散なる遊歩者に向っては近代の生活に味《あじわ》われない官覚の慰安を覚えさせる。
木で造った渡船と年老いた船頭とは現在並びに将来の東京に対して最も尊い骨董《こっとう》の一つである。古樹と寺院と城壁と同じくあくまで保存せしむべき都市の宝物《ほうもつ》である。都市は個人の住宅と同じくその時代の生活に適当せしむべく常に改築の要あるは勿論のことである。しかしわれわれ
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