み》ヶ|池《いけ》や姥《うば》ヶ|池《いけ》は今更|尋《たずね》る由《よし》もない。浅草寺境内《せんそうじけいだい》の弁天山《べんてんやま》の池も既に町家《まちや》となり、また赤坂の溜池《ためいけ》も跡方《あとかた》なく埋《うず》めつくされた。それによって私は将来不忍池もまた同様の運命に陥りはせぬかと危《あやぶ》むのである。老樹鬱蒼として生茂《おいしげ》る山王《さんのう》の勝地《しょうち》は、その翠緑《すいりょく》を反映せしむべき麓の溜池あって初めて完全なる山水の妙趣を示すのである。もし上野の山より不忍池の水を奪ってしまったなら、それはあたかも両腕をもぎ取られた人形に等しいものとなるであろう。都会は繁華となるに従って益々自然の地勢から生ずる風景の美を大切に保護せねばならぬ。都会における自然の風景はその都市に対して金力を以て造《つく》る事の出来ぬ威厳と品格とを帯《おび》させるものである。巴里《パリー》にも倫敦《ロンドン》にもあんな大きな、そしてあのように香《かんば》しい蓮《はす》の花の咲く池は見られまい。
都会の水に関して最後に渡船《わたしぶね》の事を一言《いちごん》したい。渡船は東京の都市が漸次《ぜんじ》整理されて行くにつれて、即ち橋梁の便宜を得るに従ってやがては廃絶すべきものであろう。江戸時代に溯《さかのぼ》ってこれを見れば元禄九年に永代橋《えいたいばし》が懸《かか》って、大渡《おおわた》しと呼ばれた大川口《おおかわぐち》の渡場《わたしば》は『江戸鹿子《えどかのこ》』や『江戸爵《えどすずめ》』などの古書にその跡を残すばかりとなった。それと同じように御厩河岸《おうまやがし》の渡《わた》し鎧《よろい》の渡《わたし》を始めとして市中諸所の渡場は、明治の初年架橋工事の竣成《しゅんせい》と共にいずれも跡を絶ち今はただ浮世絵によって当時の光景を窺《うかが》うばかりである。
しかし渡場はいまだ悉《ことごと》く東京市中からその跡を絶った訳ではない。両国橋を間にしてその川上に富士見《ふじみ》の渡《わたし》、その川下に安宅《あたけ》の渡が残っている。月島《つきしま》の埋立工事が出来上ると共に、築地《つきじ》の海岸からは新に曳船《ひきふね》の渡しが出来た。向島《むこうじま》には人の知る竹屋《たけや》の渡しがあり、橋場《はしば》には橋場の渡しがある。本所《ほんじょ》の竪川《たてかわ
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