つくして、馬の尻から馬糞《ばふん》の落ちるのを待っている。私はこれらの光景に接すると、必《かならず》北斎あるいはミレエを連想して深刻なる絵画的写実の感興を誘《いざな》い出され、自《みずか》ら絵事《かいじ》の心得なき事を悲しむのである。

 以上|河流《かりゅう》と運河の外なお東京の水の美に関しては処々の下水が落合って次第に川の如き流をなす溝川《みぞかわ》の光景を尋ねて見なければならない。東京の溝川には折々|可笑《おか》しいほど事実と相違した美しい名がつけられてある。例えば芝愛宕下《しばあたごした》なる青松寺《せいしょうじ》の前を流れる下水を昔から桜川《さくらがわ》と呼びまた今日では全く埋尽《うずめつく》された神田|鍛冶町《かじちょう》の下水を逢初川《あいそめがわ》、橋場総泉寺《はしばそうせんじ》の裏手から真崎《まっさき》へ出る溝川を思川《おもいがわ》、また小石川金剛寺坂下《こいしかわこんごうじざかした》の下水を人参川《にんじんがわ》と呼ぶ類《たぐい》である。江戸時代にあってはこれらの溝川も寺院の門前や大名屋敷の塀外《へいそと》なぞ、幾分か人の目につく場所を流れていたような事から、土地の人にはその名の示すが如き特殊の感情を与えたものかも知れない。しかし今日の東京になっては下水を呼んで川となすことすら既に滑稽なほど大袈裟《おおげさ》である。かくの如くその名とその実との相伴《あいともな》わざる事は独り下水の流れのみには留まらない。江戸時代とまたその以前からの伝説を継承した東京市中各処の地名には少しく低い土地には千仭《せんじん》の幽谷を見るように地獄谷《じごくだに》[#ここから割り注]麹町にあり[#ここで割り注終わり]千日谷《せんにちだに》[#ここから割り注]四谷鮫ヶ橋にあり[#ここで割り注終わり]我善坊《がぜんぼう》ヶ|谷《だに》[#ここから割り注]麻布にあり[#ここで割り注終わり]なぞいう名がつけられ、また少しく小高《こだか》い処は直ちに峨々《がが》たる山岳の如く、愛宕山《あたごやま》道灌山《どうかんやま》待乳山《まつちやま》なぞと呼ばれている。島なき場所も柳島《やなぎしま》三河島《みかわしま》向島《むこうじま》なぞと呼ばれ、森なき処にも烏森《からすもり》、鷺《さぎ》の森《もり》の如き名称が残されてある。始めて東京へ出て来た地方の人は、電車の乗換場《のりかえば》を間違え
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