釣船の外にボオトをも貸したのである。今日築地の河岸を散歩しても私ははっきりとその船宿の何処《いずこ》にあったかを確めることが出来ない。わずか二十年|前《ぜん》なる我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化はむしろ驚くの外《ほか》はない。

 大川筋《おおかわすじ》一帯の風景について、その最も興味ある部分は今述べたように永代橋河口《えいたいばしかこう》の眺望を第一とする。吾妻橋《あずまばし》両国橋《りょうごくばし》等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋におけるが如く感興を一所に集注する事が出来ない。これを例するに浅野《あさの》セメント会社の工場と新大橋《しんおおはし》の向《むこう》に残る古い火見櫓《ひのみやぐら》の如き、あるいは浅草蔵前《あさくさくらまえ》の電燈会社と駒形堂《こまがたどう》の如き、国技館《こくぎかん》と回向院《えこういん》の如き、あるいは橋場《はしば》の瓦斯《ガス》タンクと真崎稲荷《まっさきいなり》の老樹の如き、それら工業的近世の光景と江戸名所の悲しき遺蹟とは、いずれも個々別々に私の感想を錯乱させるばかりである。されば私はかくの如く過去と現在、即ち廃頽と進歩との現象のあまりに甚しく混雑している今日の大川筋よりも、深川小名木川《ふかがわおなぎがわ》より猿江裏《さるえうら》の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の名残《なごり》も容易《たやす》くは尋ねられぬほどになった処を選ぶ。大川筋は千住《せんじゅ》より両国に至るまで今日においてはまだまだ工業の侵略が緩漫《かんまん》に過ぎている。本所小梅《ほんじょこうめ》から押上辺《おしあげへん》に至る辺《あたり》も同じ事、新しい工場町《こうじょうまち》としてこれを眺めようとする時、今となってはかえって柳島《やなぎしま》の妙見堂《みょうけんどう》と料理屋の橋本《はしもと》とが目ざわりである。

 運河の眺望は深川の小名木川辺に限らず、いずこにおいても隅田川の両岸に対するよりも一体にまとまった感興を起させる。一例を挙ぐれば中洲《なかず》と箱崎町《はこざきちょう》の出端《でばな》との間に深く突入《つきい》っている堀割はこれを箱崎町の永久橋《えいきゅうばし》または菖蒲河岸《しょうぶがし》の女橋《おんなばし》から眺めやるに水はあたかも入江の如く無数の荷船は部落の観をなし薄暮風収まる時|競《きそ
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