しているが、私の目にはいまだ一ツとして寺観の屋根を仰ぐが如き雄大なる美感を起させたものはない。新時代の建築に対するわれわれの失望は啻《ただ》に建築の様式のみに留まらず、建築と周囲の風景樹木等の不調和なる事である。現代人の好んで用ゆる煉瓦の赤色《あかいろ》と松杉の如き植物の濃く強き緑色《りょくしょく》と、光線の烈しき日本固有の藍色《らんしょく》の空とは何たる永遠の不調和であろう。日本の自然は尽《ことごと》く強い色彩を持っている。これにペンキあるいは煉瓦《れんが》の色彩を対時せしめるのは余りに無謀といわねばならぬ。試《こころみ》に寺院の屋根と廂《ひさし》と廻廊を見よ。日本寺院の建築は山に河に村に都に、いかなる処においても、必ずその周囲の風景と樹木と、また空の色とに調和して、ここに特色ある日本固有の風景美を組織している。日本の風景と寺院の建築とは両々《りょうりょう》相俟《あいま》って全く引離すことが出来ないほどに混和している。京都|宇治《うじ》奈良|宮島《みやじま》日光等の神社仏閣とその風景との関係は、暫らくこれを日本旅行者の研究に任せて、私はここにそれほど誇るに足らざる我が東京市中のものについてこれを観《み》よう。
 不忍《しのばず》の池《いけ》に泛《うか》ぶ弁天堂とその前の石橋《いしばし》とは、上野の山を蔽《おお》う杉と松とに対して、または池一面に咲く蓮花《はすのはな》に対して最もよく調和したものではないか。これらの草木《そうもく》とこの風景とを眼前に置きながら、殊更《ことさら》に西洋風の建築または橋梁を作って、その上から蓮の花や緋鯉《ひごい》や亀の子などを平気で見ている現代人の心理は到底私には解釈し得られぬ処である。浅草観音堂とその境内《けいだい》に立つ銀杏《いちょう》の老樹、上野の清水堂《きよみずどう》と春の桜秋の紅葉《もみじ》の対照もまた日本固有の植物と建築との調和を示す一例である。
 建築は元《もと》より人工のものなれば風土気侯の如何《いかん》によらず亜細亜《アジヤ》の土上《どじょう》に欧羅巴《ヨウロッパ》の塔を建《たつ》るも容易であるが、天然の植物に至っては人意のままに猥《みだり》にこれを移し植えることは出来ない。無情の植物はこの点において最大の芸術家哲学者よりも遥《はるか》によく己れを知っている。私は日本人が日本の国土に生ずる特有の植物に対して最少《もすこ
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