、本所竪川《ほんじょたてかわ》、同じく本所|五《いつ》ツ目《め》羅漢寺《らかんじ》、千住《せんじゅ》、目黒、青山竜巌寺《あおやまりゅうがんじ》、青山|穏田水車《おんでんすいしゃ》、神田駿河台《かんだするがだい》、日本橋橋上《にほんばしきょうじょう》、駿河町越後屋店頭《するがちょうえちごやてんとう》、浅草本願寺《あさくさほんがんじ》、品川御殿山《しながわごてんやま》、及び小石川の雪中《せっちゅう》である。私はまだこれらの錦絵をば一々実景に照し合した事はない。それ故例えば深川万年橋あるいは本所竪川辺より江戸時代においても果して富士を望み得たか否かを知る事が出来ない。しかし北斎及びその門人|昇亭北寿《しょうていほくじゅ》また一立斎広重《いちりゅうさいひろしげ》らの古版画は今日なお東京と富士山との絵画的関係を尋ぬるものに取っては絶好の案内たるやいうを俟《ま》たない。北寿が和蘭陀風《オランダふう》の遠近法を用いて描いたお茶の水の錦絵はわれら今日|目《ま》のあたり見る景色と変りはない。神田聖堂《かんだせいどう》の門前を過ぎてお茶の水に臨む往来の最も高き処に佇《たたず》んで西の方《かた》を望めば、左には対岸の土手を越して九段の高台、右には造兵廠《ぞうへいしょう》の樹木と並んで牛込《うしごめ》市《いち》ヶ|谷《や》辺《へん》の木立を見る。その間を流れる神田川は水道橋より牛込|揚場辺《あげばへん》の河岸《かし》まで、遠いその眺望のはずれに、われらは常に富嶽とその麓の連山を見る光景、全く名所絵と異る所がない。しかして富嶽の眺望の最も美しきはやはり浮世絵の色彩に似て、初夏晩秋の夕陽《せきよう》に照されて雲と霞は五色《ごしき》に輝き山は紫に空は紅《くれない》に染め尽される折である。
当世人《とうせいじん》の趣味は大抵日比谷公園の老樹に電気燈を点じて奇麗奇麗と叫ぶ類《たぐい》のもので、清夜《せいや》に月光を賞し、春風《しゅんぷう》に梅花を愛するが如く、風土固有の自然美を敬愛する風雅の習慣今は全く地を払ってしまった。されば東京の都市に夕日が射《さ》そうが射すまいが、富士の山が見えようが見えまいがそんな事に頓着するものは一人もない。もしわれらの如き文学者にしてかくの如き事を口にせば文壇は挙《こぞ》って気障《きざ》な宗匠《そうしょう》か何ぞのように手厳《てひど》く擯斥《ひんせき》するにちがいない
前へ
次へ
全70ページ中68ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング