台町《こびなただいまち》の裏へと攀登《よじのぼ》っている。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹藪も樹木も伐払《きりはら》われて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった。
 まだ私が七、八ツの頃かと記憶している。切支丹坂に添う崖の中腹に、大雨《たいう》か何かのために突然|真四角《まっしかく》な大きな横穴が現われ、何処《どこ》まで深くつづいているのか行先が分らぬというので、近所のものは大方切支丹屋敷のあった頃掘抜いた地中の抜道ではないかなぞと評判した。
 この茗荷谷を小日向|水道町《すいどうちょう》の方へ出ると、今も往来の真中に銀杏《いちょう》の大木が立っていて、草鞋《わらじ》と炮烙《ほうろく》が沢山奉納してある小さなお宮がある。一体この水道端《すいどうばた》の通は片側に寺が幾軒となくつづいて、種々《いろいろ》の形をした棟門《むねもん》を並べている処から、今も折々私の喜んで散歩する処である。この通を行尽すと音羽《おとわ》へ曲ろうとする角に大塚火薬庫のある高い崖が聳え、その頂《いただき》にちらばらと喬木《きょうぼく》が立っている。崖の草枯れ黄《きば》み、この喬木の冬枯《ふゆがれ》した梢《こずえ》に烏が群《むれ》をなして棲《とま》る時なぞは、宛然《さながら》文人画を見る趣がある。これと対して牛込《うしごめ》の方を眺めると赤城《あかぎ》の高地があり、正面の行手には目白の山の側面がまた崖をなしている。目白の眺望は既に蜀山人《しょくさんじん》の東豊山《とうほうざん》十五景の狂歌にもある通り昔からの名所である。蜀山人の記に曰く
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東豊山|新長谷寺目白不動尊《しんちょうこくじめじろふどうそん》のたゝせ玉へる山は宝永の頃|再昌院法印《さいしょういんほういん》のすめる関口《せきぐち》の疏儀荘《そぎしょう》よりちかければ西南《せいなん》にかたぶく日影に杖をたてゝ時しらぬ富士の白雪《しらゆき》をながめ千町《せんちょう》の田面《たのも》のみどりになびく風に凉みてしばらくいきをのぶとぞ聞えし又|物部《もののべ》の翁《おきな》の牛込《うしごめ》にいませし頃にやありけん南郭《なんかく》春台《しゅんだい》蘭亭《らんてい》をはじめとしてこのほとりの十五景をわかちてからうたに物せし一巻《いっかん》をもみたりし事あればわが生れたる牛込の里ちかきあたりのけし
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