ィ更にもう一度あの悪戯書《いたずらがき》で塗り尽された部屋の壁、その窓下へ掘った金魚の池なぞあらゆる稚時《おさなどき》の古跡が尋ねて見たく、現在|其処《そこ》に住んでいる新しい主人の事を心憎く思わねばならなかった。
私の住んでいる時分から家は随分古かった。それ故、間もなく新しい主人は門の塀まで改築してしまった事を私は知っている。乃《すなわ》ち私の稚時の古跡はもう影も形もなくこの浮世からは湮滅《いんめつ》してしまったのだ……
*
寺院と称する大きな美術の製作は偉大な力を以てその所在の土地に動しがたい或る特色を生ぜしめる。巴里《パリー》にノオトル・ダアムがある。浅草《あさくさ》に観音堂《かんのんどう》がある。それと同じように、私の生れた小石川をば(少くとも私の心だけには)あくまで小石川らしく思わせ、他の町からこの一区域を差別させるものはあの伝通院《でんずういん》である。滅びた江戸時代には芝の増上寺《ぞうじょうじ》、上野の寛永寺《かんえいじ》と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院である。
伝通院の古刹《こさつ》は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中
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