の小娘が映画の変り目をねらつて、アイスクリームやら菓子煎餅やらを呼びながら売り歩くのを、友田は早くも呼び留めて、蜜柑を買ひ、「どうです一ツ。」と云つて、膝の上に手を組んでゐる女に渡した。

 映画館を出ると短い秋の日はもう夕方近くになり、あたりの電灯は一際《ひときは》明く輝き渡るにつれて、往来《ゆきき》の人の賑ひもまた一層激しくなるやうに思はれた。
「どうです。お茶でも飲みませんか。」
「えゝ、有難うございますけど、今日はだまつて出て参りましたから。」
「さうですか。それぢやまた此の次の日曜日に。約束して下さい。いゝでせう。」
「はい。」
「お宅は新小岩でしたね。」
「はい。」
「それぢや国鉄でお帰りですね。」
「はい。」
「浅草橋でお乗りなら、私はお茶の水の方ですから、そこまでお送りしませう。」
 あくる日会社で顔を見合したが、友田は黙つて知らぬ顔をしてゐると、女の方もそれと察したらしく何知らぬ風をしてゐる中、いつか会社のひける時間になつた。
 友田は大急ぎで一歩《ひとあし》先に外へ出て電車に乗り秋葉原の乗替場《のりかへば》で後から女の来るのを待ち受け、其姿を見るや否や、いきなり近寄つて、
「民子さん。」と声をかけた。
「あら、友田さん。」と女は驚いて其場に立止つた。
「会社ぢや話ができませんからね、僕こゝでお待ちしてゐたんです。是非きいて頂きたい話があるのです。民子さん。きいて下さい。」
「どんな事でございます。」と民子は眼を見張つたが、あたりの人目を憚る様子で、立つたまゝ静に友田の顔を見返した。
 友田は一歩進み寄り、わざとらしく声をひそめて、「僕あなたが初めて会社へお出でになつた時から、一目見て好きになつたのです。驚いちやいけませんよ。僕どうしても思ひ切れないんです。僕の言ふこと聞いて下さい。」
 言ひながらいきなり友田はハンドバックを持つてゐる民子の手を握つた。
 あたりには電車の来るのを待つ人達が並んで立つてゐる。一人の者もあれば三四人連立つて話をしたり笑つたりしてゐるものもあるので、それ等の人目を避けるためか、女は握られた手を振放さうともせず、その儘だまつて其の場に立つてゐた。
 電車が来て駐《とま》ると共に其戸の明くのを遅しと、あたりの人達は争つて乗込むので、乗車場《プラツトフオーム》は俄にがらりとなる。友田は握つた女の手を放さず、後の壁際に作り付けた腰掛の方へと歩み寄りながら、
「初めてお目にかゝつた其時からです。僕はあなたが好きで好きでたまらなくなつてしまつたのです。きのふ浅草でお目にかゝつた時は夢ぢやないかと思ひました。僕どうしても思つてる事をすつかりあなたに打明けてしまはなければ居られなくなつたのです。民子さん、御迷惑でも聞いて下さい。」と先へ腰をおろし引き据るやうに其傍に女を坐らせた。女は何とも言はず手を握られたまゝきちんと腰をかけ揃へた足先に視線を移した。
 一《ひ》トしきり静になつたあたりは絶えず下から上つて来る乗客で、見る見る中もとのやうに込み合つて来るばかりか、二人しか居ない腰掛のすいてゐるのを見て、二三人の男が大声で話をしながら腰をかけるが否や其一人が口に啣《くは》へた巻煙草にマツチの火をつけた。友田は握つた女の手を離すと共に、言ひかけた言葉を杜絶《とだや》した時、またしても電車が来て駐ると共にあたりの人達はざわめき立つて其方へと走り寄る。女も立上つて、
「では明日。またお目にかゝります。」
「では。左様なら。気をつけておいでなさい。」
 友田は後から静に立上り、構内の時計と電車の動き出すのを眺めながら、自分の乗るべき車の来る向側の乗車場《のりば》へと歩いて行つた。
 次の日は午後から小雨が降り出したのみならず、友田は毎日同じやうな行動を取るのもどうかと考へ、会社を出ると一人ぶら/\銀座を歩き其辺のバーで一杯飲んで空しく貸間に帰つたが、眠られない夜《よ》の更《ふ》けるにつれて、これまでの経過を思返して見ると、手を握つて口説《くど》いたからは、乗りかけた船も同様、是が非にも行くところまで行かなければならない。それにはどう云ふ方法を取りどういふ場所を択ぶがよからうと、心ひそかに思案をしてゐる中、日は過ぎて明日《あす》は又もや日曜日といふ其の前の日になつた。
 友田は会社の廊下で、女の出て来るのを待ち受け、
「あしたは浅草で会ふ日です。僕は浅草橋の駅外《えきそと》で待つてゐます。時間は午後……一時ですか、二時ですか。」
「二時。」と言つたなり、女は事務の書類を手にして昇降機《エレベータ》の方へ小走りに行つてしまつた。

 その日友田は会社がひけてから、夜《よる》になるのを待つて、一人浅草公園に出かけて、明日《あした》の午後映画を見てから後《あと》の帰り道、いよ/\彼《か》の女《をんな》をつれ込む場
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング