ら、彼は早くも民子には倦きてゐた。同じ処で同じ女に逢ふのが、つまらなくて成らなくなつたものゝ今更さうとも云へないので、二三度処を変へてパン/\の出入する烏森あたりの旅館へ連込んだ事もあつたが、矢張同じ事。女の言ふこと、為すことはきまり切つてしまつて、初の中催したやうな刺戟も昂奮をも感じさせないので、遂には連込の席料を払ふことさへ次第に惜しくなるばかり。何とか口実をつけて逃げたいと思ふ矢先、突然横浜転任の命令を受けたのは、彼の身に取つては全く天の佑《たすけ》であつた。
月日は忽ち半年あまりを過ぎた。或日友田は東京にゐた時分の昔を思出し、同じやうな日曜の休日、久しぶりに銀座通や浅草公園を歩いて見やうと、横浜の駅から電車に乗ると、偶然車の中で以前机を並べて仕事をしてゐた同僚の一人に出会つた。
「やア、君。」
「やア、友田君。」
「今日は親類の者に頼まれて税関まで出て来たんですが、休日で駄目でした。」
「さうでしたか。東京の本店では皆さんお変りもありませんか。」
「みんな無事にやつて居ます。変りはありません。」
「女の人達も先の通りですか。」
「さう云へばあの人……君の机の筋向にゐた貝原民子さん。」
「うむ。民子さん。小柄の人でしたね。どうかしましたか。」
「近々結婚するさうです。」
「あの人が結婚をする……」
「会社へ来る前働いてゐた商店の人と、急に話がきまつて結婚するんださうです。」
「さうですか。さうですか。それは目出たい話ですな。」
友田は載せた雑誌の落るのもかまはず片手で其膝を叩き、さも可笑しさうに声まで出して大きく笑つた。[#地から1字上げ]昭和卅一年三月
底本:「日本の名随筆 別巻83 男心」作品社
1998(平成10)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「荷風全集 第一一巻」岩波書店
1964(昭和39)年11月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月5日作成
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