たくしをして更に奇異なる感を増さしめる原因であった。オペラは欧洲の本土に在っては風雪|最《もっとも》凛冽《りんれつ》なる冬季にのみ興行せられるのが例である。それ故わたくしの西洋音楽を聴いて直に想い起すものは、深夜の燈火に照された雪中|街衢《がいく》の光景であった。
 然るに当夜観客の邦人中には市中の旅館に宿泊して居る人ででもあるのか、平袖の貸浴衣に羽織も着ず裾をまくり上げて団扇で脛をあおいでいる者もあり、又西洋人の中には植民地に於てのみ見受けられる雑種児にして、其風采容貌の欧洲本土に在っては決して見られない者も多く来り集っていた。其夜演奏が畢《おわ》って劇場を出ると、堀端からはハーモニカや流行唄が聞え、日比谷の四辻まで来ると公園の共同便所から発散する悪臭が人の鼻を衝く。家に帰ると座敷の内には藪蚊がうなっていて、墻《へい》の外には夜廻の拍子木が聞えるのである。わたくしは芸術が其の発生し、其の発達し来った本国を離れて、気候風土及び人種を異にした境に移された場合、其の芸術の効果と云い或は其の価値と称するものの何たるかを思考しなければならなかった。言を換うれば芸術の完全に鑑賞せられ得べき範囲に
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