の書始めに次のやうな文章がある。

[#ここから1字下げ]
方今女学之行[#(ルヽ)]也専[#(ラ)]明[#(ニシ)][#二]女子之道[#(ヲ)][#一]。稍[#(※[#二の字点、1−2−22])]有[#(リ)][#二]男女同権之説[#一]。然[#(リ)]而[#(シテ)]別品之流行未[#(ダ)][#下]曾[#(テ)]有[#中]盛[#(ンナル)][#二]今日[#(ヨリ)][#一]者[#上]也。妻[#(ニ)]有[#(リ)][#二]正権[#一]妾[#(ニ)]有[#(リ)][#二]内外[#一]。一男[#(ニシテ)]而能[#(ク)]守[#(ル)][#二]一婦[#(ヲ)][#一]者甚鮮[#(シ)]矣。蓋[#(シ)]一男之養[#(フハ)][#二]数女[#(ヲ)][#一]則[#(チ)]男権之圧[#(スル)][#二]女権[#(ヲ)][#一]也。一女之遇[#(フハ)][#二]四男[#(ニ)][#一]則[#(チ)]女権之勝[#(ル)][#二]男権[#(ニ)][#一]也。合[#二]算[#(シテ)]此等之権[#(ヲ)][#一]以[#(テ)]為[#(ス)][#二]男女同権[#(ト)][#一]耶《カ》。
[#ここで字下げ終わり]

 妾宅といふやうな不真面目《ふまじめ》極《きはま》る問題をば、全然其れとは調和しない形式の漢文を以て、仔細らしく論じ出して、更に戯作者風の頓智滑稽の才を振《ふる》つて人を笑はす。かう云ふ著者の態度は飽くまで其の時代一般の傾向を示したものである。丁度其れと同じやう、現代の年少詩人が日本にも随分古くからある天竺牡丹《てんぢくぼたん》の花に殊更《ことさら》ダリヤといふ洋語を応用し、其の花の形容から失へる恋、得たる恋の哀楽を叙して、忽ち人生哲学の奥義《あうぎ》に説き及ぶが如き、亦《また》よく吾々の時代思潮を語るものでは無からうか。似て非なる漢文の著述は時代と共に全く断滅してしまつた如く、吾々の時代の「新しき文章」も果して幾何《いくばく》の生命を有するものであらう。或はこれが日本文の最後の定《さだま》つた形式として少くとも或る地盤を作るものであらうか。自分は知らない。
 天保年間《てんぱうねんかん》の発行としてある「江戸繁昌記」と此れに模して著作された「東京新繁昌記」とは、単に其の目次だけを比較して見ても、非常な興味を以て、時代風俗の変遷を眺める事が出来る。明治の初年に於ける「文明開化」と云ふ通り言葉は如何なる強い力を以て国民を支配したであらう。「新繁昌記」の著者が牛肉を讃美して、「牛肉《ギウニク》ノ人《ヒト》ニ於《オ》ケルヤ開化之薬舗《カイクワノヤクホ》ニシテ而《シカ》シテ文明《ブンメイ》ノ良剤《リヤウザイ》也《ナリ》」と言ひ、京橋に建てられた煉瓦石《れんぐわせき》の家を見ては、「此《コ》ノ築造《チクザウ》有《ア》ルハ都下《トカ》ノ繁昌《ハンジヤウ》ヲ増《マ》シテ人民《ジンミン》ノ知識《チシキ》ヲ開《ヒラ》ク所以《ユエン》ノ器械《キカイ》也《ナリ》」と叫んだ如きわざと誇張的に滑稽的に戯作の才筆を揮つたばかりではなからう。今日の時代から振返つて見れば、無論此の時代の「文明開化」には如何にも子供らしく馬鹿馬鹿しい事が多い。けれども時代一般の空気が如何にも生々《いき/\》として、多少進取の気運に伴《ともな》つて奢侈逸楽等の弊害欠点の生じて来る事に対しても、世間は多くの杞憂《きいう》を抱《いだ》かず、清濁併せ呑む勢を以て大胆に猛進して行つた有様はいかにも心持よく感じられる。これを四十四年後に於ける今日《こんにち》の時勢に比較すると、吾々は殊にミリタリズムの暴圧の下に萎縮しつゝある思想界の現状に鑑《かんが》みて、転《うた》た夢の如き感があると云つてもいゝ。然し自分は断つて置く。自分はなにも現時の社会に対して経世家的憤慨を漏《もら》さうとするのではない。時勢がよければ自分は都の花園に出て、時勢と共に喜び楽しむ代り、時勢がわるければ黙つて退いて、象牙の塔に身を隠し、自分一個の空想と憧憬《しようけい》とが導いて行く好き勝手な夢の国に、自分の心を逍遥させるまでの事である。
 寧ろかう云ふ理由から、自分は今|正《まさ》に、自分が此の世に生れ落ちた頃の時代の中《うち》に、せめて虫干の日の半日|一時《いつとき》なりと、心静かに遊んで見や[#「や」に「ママ」の注記]うと急《あせ》つてゐる最中なのである。
 大方《おほかた》母上が若い時に着た衣装であらう。撫子《なでしこ》の裾模様をば肉筆で描《か》いた紗《しや》の帷子《かたびら》が一枚風にゆられながら下つてゐる辺《あた》りの縁先に、自分は明治の初年に出版された草双紙の種類を沢山に見付け出した。古河黙阿弥《ふるかはもくあみ》の著述に大蘇芳年《たいそよしとし》の絵を挿入《さしい》れた「霜夜鐘十時辻占《しもよのかねじふじ
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング