虫干
永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)毎年《まいねん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)や[#「や」に「ママ」の注記]
[#…]:返り点
(例)明[#(ニシ)][#二]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)方今女学之行[#(ルヽ)]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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毎年《まいねん》一度の虫干《むしぼし》の日ほど、なつかしいものはない。
家中《うちぢゆう》で一番広い客座敷の縁先には、亡《なくな》つた人達の小袖《こそで》や、年寄つた母上の若い時分の長襦袢などが、幾枚となくつり下げられ、其のかげになつて薄暗く妙に涼しい座敷の畳の上には歩く隙間もないほどに、古い蔵書や書画帖などが並べられる。
色のさめた古い衣裳の仕立方《したてかた》と、紋の大きさ、縞柄、染模様などは、鋭い樟脳の匂ひと共に、自分に取つては年毎にいよ/\なつかしく、過ぎ去つた時代の風俗と流行とを語つて聞《きか》せる。古い蔵書のさま/″\な種類は、其の折々の自分の趣味思想によつて、自分の家《うち》にもこんな面白いものがあつたのかと、忘れてゐた自分の眼を驚かす。
近頃になつて父が頻《しきり》と買込まれる支那や朝鮮の珍本は、自分の趣味知識とは余りに懸隔が烈し過ぎる。古い英語の経済学や万国史はさして珍しくもない。今年の虫干の昼過ぎ、一番自分の眼を驚かし喜ばしたものは、明治初年の頃に出版された草双紙や綿絵や又は漢文体の雑書であつた。
明治《めいぢ》初年の出版物は自分が此の世に生れ落ちた当時の人情世態を語る尊い記録《ドキユウマン》である。自分の身の上ばかりではない。自分を生んだ頃の父と母との若い華やかな時代をも語るものである。苔と落葉と土とに埋《うづも》れてしまつた古い石碑の面《おもて》を恐る/\洗ひ清めながら、磨滅した文字《もんじ》の一ツ一ツを捜《さぐ》り出して行くやうな心持で、自分は先づ第一に、「東京新繁昌記《とうきやうしんはんじやうき》」と言ふ漢文体の書籍を拾ひ読みした。
今日《こんにち》では最早《もは》やかう云ふ文章を書くものは一人《いちにん》もあるまい。「東京新繁昌記」は自分が茲《ここ》に説明するまでもなく、寺門静軒《てらかどせいけん》の「江戸繁昌記」成島柳北《なるしまりうほく》の「柳橋新誌《りうけうしんし》」に倣《なら》つて、正確な漢文をば、故意に破壊して日本化した結果、其の文章は無論支那人にも分らず、又漢文の素養なき日本人にも読めない。所謂|鵺《ぬえ》のやうな一種変妙な形式を作り出してゐる。この変妙な文体は今日の吾々に対しては著作の内容よりも一層多大の興味を覚えさせる。何故《なぜ》なれば、其れは正確純粋な漢文の形式が漸次《ぜんじ》時代と共に日本化して来るに従ひ、若し漢文によつて浮世床《うきよどこ》や縁日や夕涼《ゆふすずみ》の如き市井の生活の実写を試みや[#「や」に「ママ」の注記]うとすれば、どうしても支那の史実を記録するやうな完全固有の形式を保たしめる事が出来なかつた事を証明したものと見られる。又江戸以来勃興した戯作[#「戯作」に傍点]といふ日本語の写実文学の感化が邪道に陥つた末世《まつせ》の漢文家を侵した一例と見ても差支へがないからである。
「東京新繁昌記」の奇妙な文体は厳格なる学者を憤慨させる間違つた処に、その時代を再現させる価値が含まれてゐるのである。此《かく》の如き漢文はやがて吾々が小学校で習つた仮名交《かなまじ》りの紀行文に終りを止《とど》めて、其の後は全く廃滅に帰してしまつた。時勢が然らしめたのである。漢文趣味と戯作趣味とは共に西洋趣味の代るところとなつた。自分は今日近代的文章と云はれる新しい日本文が恰《あたか》も三十年昔に、「東京新繁昌記」に試みられた奇態な文体と同様な、不純混乱を示してゐはせぬかと思ふのである。かの「スバル」一派を以て、其の代表的実例となした或る批評の老大家には、青年作家の文章が丁度西洋人の日本語を口真似する手品使ひの口上《こうじやう》のやうに思はれ、又日本文を読み得る或外国人には矢張り現代の青年作家が日本文の間々《あひだ/\》に挿入する外国語の意味が、余りに日本化して使はれてゐる為め、折々《おり/\》は諒解されない事があるとか云ふ話も聞いた。大きにさうかも知れない。然しこの間違つた、滑稽な、鵺《ぬえ》のやうな、故意《こい》になした奇妙の形式は、寧《む》しろ言現《いひあらは》された叙事よりも、内容の思想を尚《なほ》能く窺ひ知らしめるのである。
新繁昌記第五編中、妾宅[#「妾宅」に傍点]と云ふ一節
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