ふところ》から大きな紙入《かみいれ》の端を見せた着物の着こなし、現代にはもう何処へ行っても容易には見られない風采である。歌舞伎芝居の楽屋などにも、こういう着物の着こなしをするものは、明治の時代の末あたりから既に見られなくなっていた。わたくしは仲の町の芸人にはあまり知合いがないが、察するところ、この土地にはその名を知られた師匠株の幇間《ほうかん》であろうと思った。
 この男は見て見ぬように踊子たちの姿と、物食う様子とを、楽し気に見やりながら静かに手酌《てじゃく》の盃《さかずき》を傾けていた。踊子の洋装と化粧の仕方を見ても、更に嫌悪を催す様子もなく、かえって老年のわたくしがいつも感じているような興味を、同じように感じているものらしく、それとなくわたくしと顔を見合せるたびたび、微笑を漏したいのを互に強いて耐《こら》えるような風にも見られるのであった。思うにこの老幇間もわたくしと同じく、時世と風俗との変遷に対して、都会の人の誰もが抱いているような好奇心と哀愁とを、その胸中に秘していたのだろう。
 暖簾外の女郎屋は表口の燈火を消しているので、妓夫《ぎゆう》の声も女の声も、歩み過る客の足音と共に途絶《とだ》えたまま、廓中は寝静ってタキシの響も聞えない。引過《ひけすぎ》のこの静けさを幸いといわぬばかり、近くの横町で、新内語《しんないかた》りが何やら語りはじめたのが、幾とし月聞き馴れたものながら、時代を超越してあたりを昔の世に引き戻した。頭を剃ったパッチばきの幇間の態度がいかにもその処を得たように見えはじめた。わたくしは旧習に晏如《あんじょ》としている人たちに対する軽い羨望《せんぼう》嫉妬《しっと》をさえ感じないわけには行かなかった。
 三月九日の火は、事によるとこの昔めいた坊主頭の年寄をも、廓と共に灰にしてしまったかも知れない。
 栄子と共にその夜すみれの店で物を食べた踊子の中の一人はほどなく浅草を去って名古屋に、一人は札幌に行った話をきいた。栄子はその後万才なにがしの女房になって、廓外《くるわそと》の路地にはいないような噂を耳にした。わたくしは栄子が父母と共にあの世へ行かず、娑婆《しゃば》に居残っている事を心から祈っている。
 大道具の頭《かしら》の外に、浅草では作曲家S氏とわたくしの作った歌劇『葛飾情話』演奏の際、ピアノをひいていた人も死んだそうである。その家は公園から田原町
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