あゝ、わたくしは死んでから後までも、生きてゐた時のやうに、逢へば別れる、わかれのさびしさに泣かねばならぬ人なのであらう………。
      ○
 薬研堀がまだ其のまゝ昔の江戸絵図にかいてあるやうに、両国橋の川しも、旧米沢町《もとよねざはちやう》の河岸まで通じてゐた時分である。東京名物の一銭蒸汽の桟橋につらなつて、浦安通ひの大きな外輪《そとわ》の汽船が、時には二艘も三艘も、別の桟橋につながれてゐた時分の事である。
 わたくしは朝寐坊むらくといふ噺家《はなしか》の弟子になつて一年あまり、毎夜市中諸処の寄席に通つてゐた事があつた。その年正月の下半月《しもはんつき》、師匠の取席《とりせき》になつたのは、深川高橋の近くにあつた、常磐町《ときはちやう》の常磐亭であつた。
 毎日午後に、下谷御徒町にゐた師匠むらくの家に行き、何やかやと、その家の用事を手つだひ、おそくも四時過には寄席の楽屋に行つてゐなければならない。その刻限になると、前座《ぜんざ》の坊主が楽屋に来るが否や、どこどん/\と楽屋の太鼓を叩きはじめる。表口では下足番の男がその前から通りがゝりの人を見て、入らつしやい、入らつしやいと腹の中か
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