たおかみさんに舟のことをきくと、渡しはもうありませんが、蒸汽は七時まで御在ますと言ふのに、やゝ腰を据ゑ、

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舟なくば雪見がへりのころぶまで
舟足を借りておちつく雪見かな
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 その頃、何や彼や書きつけて置いた手帳は、その後いろ/\な反古《ほご》と共に、一たばねにして大川へ流してしまつたので、今になつては雪が降つても、その夜のことは、唯人情のゆるやかであつた時代と共に、早く世を去つた友達の面影がぼんやり記憶に浮んで来るばかりである。
      ○
 雪もよひの寒い日になると、今でも大久保の家の庭に、一羽黒い山鳩の来た日を思出すのである。
 父は既に世を去つて、母とわたくしと二人ぎり広い家にゐた頃である。母は霜柱の昼過までも解けない寂しい冬の庭に、折々山鳩がたつた一羽どこからともなく飛んで来るのを見ると、あの鳩が来たからまた雪が降るでせうと言はれた。果して雪がふつたか、どうであつたか、もう能くは覚えてゐないが、その後も冬になると折々山鳩の庭に来たことだけは、どういふわけか、永くわたくしの記憶に刻みつけられてゐる。雪もよひの冬の日、暮方ちかく
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