。土間があつて、家の内の座敷にはもうランプがついてゐる。
 友達がおかみさんを呼んで、一杯いたゞきたいが、晩くて迷惑なら壜詰を下さいと言ふと、おかみさんは姉様かぶりにした手拭を取りながら、お上んなさいまし。何も御在ませんがと言つて、座敷へ座布団を出して敷いてくれた。三十ぢかい小づくりの垢抜のした女であつた。
 焼海苔に銚子を運んだ後、おかみさんはお寒いぢや御在ませんかと親し気な調子で、置火燵を持出してくれた。親切で、いや味がなく、機転のきいてゐる、かういふ接待ぶりも其頃にはさして珍しいと云ふほどの事でもなかつたのであるが、今日これを回想して見ると、市街の光景と共に、かゝる人情、かゝる風俗も再び見難く、再び遇ひがたきものである。物一たび去れば遂にかへつては来ない。短夜の夢ばかりではない。
 友達が手酌の一杯を口のはたに持つて行きながら、

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雪の日や飲まぬお方のふところ手
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と言つて、わたくしの顔を見たので、わたくしも、

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酒飲まぬ人は案山子の雪見哉
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と返して、その時銚子のかはりを持つて来
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