雪の日
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)火燵《こたつ》

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(例)情婦|仇吉《あだきち》

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        ○

 曇って風もないのに、寒さは富士おろしの烈しく吹きあれる日よりもなお更身にしみ、火燵《こたつ》にあたっていながらも、下腹《したはら》がしくしく痛むというような日が、一日も二日もつづくと、きまってその日の夕方近くから、待設けていた小雪が、目にもつかず音もせずに降ってくる。すると路地のどぶ板を踏む下駄の音が小走りになって、ふって来たよと叫ぶ女の声が聞え、表通を呼びあるく豆腐屋の太い声が気のせいか俄《にわか》に遠くかすかになる……。
 わたくしは雪が降り初めると、今だに明治時代、電車も自動車もなかった頃の東京の町を思起すのである。東京の町に降る雪には、日本の中でも他処《よそ》に見られぬ固有のものがあった。されば言うまでもなく、巴里《パリー》や倫敦《ロンドン》の町に降る雪とは全くちがった趣があった。巴里の町にふる雪はプッチニイが『ボエーム』の曲を思出させる。哥沢節《うたざわぶし》に誰もが知っている『羽織《はおり》かくして』という曲がある。
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羽織かくして、  袖ひきとめて、  どうでもけふは行かんすかと、
言ひつつ立つて櫺子窓《れんじまど》、  障子ほそめに引きあけて、
あれ見やしやんせ、  この雪に。
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 わたくしはこの忘れられた前の世の小唄《こうた》を、雪のふる日には、必ず思出して低唱《ていしょう》したいような心持になるのである。この歌詞には一語の無駄もない。その場の切迫した光景と、その時の綿々とした情緒とが、洗練された言語の巧妙なる用法によって、画《え》よりも鮮明に活写されている。どうでも今日は行かんすかの一句と、歌麿《うたまろ》が『青楼年中行事』の一画面とを対照するものは、容易にわたくしの解説に左袒《さたん》するであろう。
 わたくしはまた更に為永春水《ためながしゅんすい》の小説『辰巳園《たつみのその》』に、丹次郎《たんじろう》が久しく別れていたその情婦|仇吉《あだきち》を深川のかくれ家《が》にたずね、旧歓をかたり合う中、日はくれて雪がふり出し、帰ろうにも帰られなくなるという、情緒|纏綿《てんめん》とした、その一章を思出す。同じ作者の『湊《みなと》の花』には、思う人に捨てられた女が堀割に沿うた貧家の一間に世をしのび、雪のふる日にも炭がなく、唯涙にくれている時、見知り顔の船頭が猪牙舟《ちょきぶね》を漕《こ》いで通るのを、窓の障子の破れ目から見て、それを呼留め、炭を貰うというようなところがあった。過ぎし世の町に降る雪には必ず三味線の音色《ねいろ》が伝えるような哀愁と哀憐とが感じられた。
 小説『すみだ川』を書いていた時分だから、明治四十一、二年の頃であったろう。井上唖々《いのうえああ》さんという竹馬《ちくば》の友と二人、梅にはまだすこし早いが、と言いながら向島を歩み、百花園《ひゃっかえん》に一休みした後、言問《こととい》まで戻って来ると、川づら一帯早くも立ちまよう夕靄《ゆうもや》の中から、対岸の灯がちらつき、まだ暮れきらぬ空から音もせずに雪がふって来た。
 今日もとうとう雪になったか。と思うと、わけもなく二番目狂言に出て来る人物になったような心持になる。浄瑠璃を聞くような軟い情味が胸一ぱいに湧いて来て、二人とも言合《いいあわ》したようにそのまま立留って、見る見る暗くなって行く川の流を眺めた。突然耳元ちかく女の声がしたので、その方を見ると、長命寺《ちょうめいじ》の門前にある掛茶屋のおかみさんが軒下《のきした》の床几《しょうぎ》に置いた煙草盆などを片づけているのである。土間《どま》があって、家の内の座敷にはもうランプがついている。
 友達がおかみさんを呼んで、一杯いただきたいが、晩《おそ》くて迷惑なら壜詰《びんづめ》を下さいと言うと、おかみさんは姉様《あねさま》かぶりにした手拭を取りながら、お上《あが》んなさいまし。何も御在ませんがと言って、座敷へ座布団を出して敷いてくれた。三十ぢかい小づくりの垢抜《あかぬけ》のした女であった。
 焼海苔に銚子《ちょうし》を運んだ後、おかみさんはお寒いじゃ御在ませんかと親し気な調子で、置火燵《おきごたつ》を持出してくれた。親切で、いや味がなく、機転のきいている、こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想して見ると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見がたく、再び遇いがたきものである。物一たび去れば遂にかえっては来ない。短夜《みじかよ》の夢ばかりではない。
 友達が手酌《てじゃく》の一杯を口のはたに持って行きながら、
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雪の日や飲まぬお方のふところ手
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と言って、わたくしの顔を見たので、わたくしも、
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酒飲まぬ人は案山子《かかし》の雪見|哉《かな》
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と返して、その時銚子のかわりを持って来たおかみさんに舟のことをきくと、渡しはもうありませんが、蒸汽は七時まで御在ますと言うのに、やや腰を据え、
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舟なくば雪見がへりのころぶまで
舟足を借りておちつく雪見かな
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 その頃、何や彼《か》や書きつけて置いた手帳は、その後いろいろな反古《ほご》と共に、一たばねにして大川へ流してしまったので、今になっては雪が降っても、その夜のことは、唯人情のゆるやかであった時代と共に、早く世を去った友達の面影がぼんやり記憶に浮んで来るばかりである。

        ○

 雪もよいの寒い日になると、今でも大久保の家の庭に、一羽黒い山鳩の来た日を思出すのである。
 父は既に世を去って、母とわたくしと二人ぎり広い家にいた頃である。母は霜柱の昼過までも解けない寂しい冬の庭に、折々山鳩がたった一羽どこからともなく飛んで来るのを見ると、あの鳩が来たからまた雪が降るでしょうと言われた。果して雪がふったか、どうであったか、もう能《よ》くは覚えていないが、その後も冬になると折々山鳩の庭に来たことだけは、どういうわけか、永くわたくしの記憶に刻みつけられている。雪もよいの冬の日、暮方ちかくなる時の、つかれて沈みきった寂しい心持。その日その日に忘られて行くわけもない物思わしい心持が、年を経て、またわけもなく追憶の悲しさを呼ぶがためかも知れない。
 その後三、四年にしてわたくしは牛込の家を売り、そこ此処《ここ》と市中の借家に移り住んだ後、麻布に来て三十年に近い月日をすごした。無論母をはじめとして、わたくしには親しかった人たちの、今は一人としてこの世に生残っていようはずはない。世の中は知らない人たちの解しがたい議論、聞馴れない言葉、聞馴れない物音ばかりになった。しかしそのむかし牛込の庭に山鳩のさまよって来た時のような、寒い雪もよいの空は、今になっても、毎年冬になれば折々わたくしが寐ている部屋の硝子窓《ガラスまど》を灰色にくもらせる事がある。
 すると、忽《たちまち》あの鳩はどうしたろう。あの鳩はむかしと同じように、今頃はあの古庭の苔の上を歩いているかも知れない……と月日の隔てを忘れて、その日のことがありありと思返されてくる。鳩が来たから雪がふりましょうと言われた母の声までが、どこからともなく、かすかに聞えてくるような気がしてくる。
 回想は現実の身を夢の世界につれて行き、渡ることのできない彼岸を望む時の絶望と悔恨との淵に人の身を投込む……。回想は歓喜と愁歎との両面を持っている謎の女神であろう。

        ○

 七十になる日もだんだん近くなって来た。七十という醜い老人になるまで、わたくしは生きていなければならないのか知ら。そんな年まで生きていたくない。といって、今夜眼をつぶって眠れば、それがこの世の終だとなったなら、定めしわたくしは驚くだろう。悲しむだろう。
 生きていたくもなければ、死にたくもない。この思いが毎日毎夜、わたくしの心の中に出没している雲の影である。わたくしの心は暗くもならず明《あかる》くもならず、唯しんみりと黄昏《たそが》れて行く雪の日の空に似ている。
 日は必ず沈み、日は必ず尽きる。死はやがて晩《おそ》かれ早かれ来ねばならぬ。
 生きている中《うち》、わたくしの身に懐《なつか》しかったものはさびしさであった。さびしさのあったばかりにわたくしの生涯には薄いながらにも色彩があった。死んだなら、死んでから後にも薄いながらに、わたくしは色彩がほしい。そう思うと、生きていた時、その時、その場の恋をした女たち、わかれた後忘れてしまった女たちに、また逢うことの出来るのは瞑《くら》いあの世のさむしい河のほとりであるような気がしてくる。
 ああ、わたくしは死んでから後までも、生きていた時のように、逢えば別れる、わかれのさびしさに泣かねばならぬ人なのであろう……。

        ○

 薬研堀《やげんぼり》がまだそのまま昔の江戸絵図にかいてあるように、両国橋の川しも、旧米沢町《もとよねざわちょう》の河岸まで通じていた時分である。東京名物の一銭蒸汽の桟橋につらなって、浦安《うらやす》通いの大きな外輪《そとわ》の汽船が、時には二|艘《そう》も三艘も、別の桟橋につながれていた時分の事である。
 わたくしは朝寐坊むらくという噺家《はなしか》の弟子になって一年あまり、毎夜市中諸処の寄席《よせ》に通っていた事があった。その年正月の下半月《しもはんつき》、師匠の取席《とりせき》になったのは、深川高橋の近くにあった、常磐町《ときわちょう》の常磐亭であった。
 毎日午後に、下谷御徒町《したやおかちまち》にいた師匠むらくの家に行き、何やかやと、その家の用事を手つだい、おそくも四時過には寄席の楽屋に行っていなければならない。その刻限になると、前座《ぜんざ》の坊主が楽屋に来るが否や、どこどんどんと楽屋の太鼓《たいこ》を叩きはじめる。表口では下足番《げそくばん》の男がその前から通りがかりの人を見て、入《い》らっしゃい、入らっしゃいと、腹の中から押出すような太い声を出して呼びかけている。わたくしは帳場《ちょうば》から火種を貰って来て、楽屋と高座の火鉢に炭火をおこして、出勤する芸人の一人一人楽屋入するのを待つのであった。
 下谷から深川までの間に、その頃乗るものといっては、柳原を通う赤馬車と、大川筋の一銭蒸汽があったばかり。正月は一年中で日の最も短い寒《かん》の中《うち》の事で、両国から船に乗り新大橋で上り、六間堀《ろっけんぼり》の横町へ来かかる頃には、立迷う夕靄《ゆうもや》に水辺の町はわけても日の暮れやすく、道端の小家には灯がつき、路地の中からは干物の匂が湧き出で、木橋をわたる人の下駄《げた》の音が、場末の町のさびしさを伝えている。
 忘れもしない、その夜の大雪は、既にその日の夕方、両国の桟橋で一銭蒸汽を待っていた時、ぷいと横面《よこつら》を吹く川風に、灰のような細《こまか》い霰《あられ》がまじっていたくらいで、順番に楽屋入をする芸人たちの帽子や外套には、宵《よい》の口から白いものがついていた。九時半に打出し、車でかえる師匠を見送り、表通へ出た時には、あたりはもう真白で、人ッ子ひとり通りはしない。
 太鼓を叩く前座の坊主とは帰り道がちがうので、わたくしは毎夜|下座《げざ》の三味線をひく十六、七の娘――名は忘れてしまったが、立花家橘之助《たちばなやきつのすけ》の弟子で、家は佐竹ッ原だという――いつもこの娘と連立って安宅蔵《あたけぐら》の通を一ツ目に出て、両国橋をわたり、和泉橋際《いずみばしきわ》で別れ、わたくしはそれから一人とぼとぼ柳原から神田を通り過ぎて番町《ばんちょう》の親の家へ、音のしないように裏門から忍び込むのであった。
 
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