来ない。短夜《みじかよ》の夢ばかりではない。
 友達が手酌《てじゃく》の一杯を口のはたに持って行きながら、
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雪の日や飲まぬお方のふところ手
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と言って、わたくしの顔を見たので、わたくしも、
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酒飲まぬ人は案山子《かかし》の雪見|哉《かな》
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と返して、その時銚子のかわりを持って来たおかみさんに舟のことをきくと、渡しはもうありませんが、蒸汽は七時まで御在ますと言うのに、やや腰を据え、
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舟なくば雪見がへりのころぶまで
舟足を借りておちつく雪見かな
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 その頃、何や彼《か》や書きつけて置いた手帳は、その後いろいろな反古《ほご》と共に、一たばねにして大川へ流してしまったので、今になっては雪が降っても、その夜のことは、唯人情のゆるやかであった時代と共に、早く世を去った友達の面影がぼんやり記憶に浮んで来るばかりである。

        ○

 雪もよいの寒い日になると、今でも大久保の家の庭に、一羽黒い山鳩の来た日を思出すのである。
 父は既に世を去って、母
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