あわ》したようにそのまま立留って、見る見る暗くなって行く川の流を眺めた。突然耳元ちかく女の声がしたので、その方を見ると、長命寺《ちょうめいじ》の門前にある掛茶屋のおかみさんが軒下《のきした》の床几《しょうぎ》に置いた煙草盆などを片づけているのである。土間《どま》があって、家の内の座敷にはもうランプがついている。
友達がおかみさんを呼んで、一杯いただきたいが、晩《おそ》くて迷惑なら壜詰《びんづめ》を下さいと言うと、おかみさんは姉様《あねさま》かぶりにした手拭を取りながら、お上《あが》んなさいまし。何も御在ませんがと言って、座敷へ座布団を出して敷いてくれた。三十ぢかい小づくりの垢抜《あかぬけ》のした女であった。
焼海苔に銚子《ちょうし》を運んだ後、おかみさんはお寒いじゃ御在ませんかと親し気な調子で、置火燵《おきごたつ》を持出してくれた。親切で、いや味がなく、機転のきいている、こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想して見ると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見がたく、再び遇いがたきものである。物一たび去れば遂にかえっては
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