出た。以上の諸名家に次《つ》いで大正時代の市井狭斜の風俗を記録する操觚者《そうこしゃ》の末に、たまたまわたくしの名が加えられたのは実に意外の光栄で、我事は既に終ったというような心持がする。
 正宗谷崎二君がわたくしの文を批判する態度は頗《すこぶる》寛大であって、ややもすれば称賛に過ぎたところが多い。これは知らず知らず友情の然らしめたためであろう。あるひは[#「あるひは」はママ]幾分奨励の意を寓して、晩年更に奮発一番すべしとの心であるやも知れない。わたくしは昭和改元の際年は知命に達していた。二君の好意を空《むな》しくせまいと思っても悲しい哉《かな》時は早や過去ったようである。強烈な電燈の光に照出される昭和の世相は老眼鏡のくもりをふいている間にどんどん変って行く。この頃、銀座通に柳の苗木《なえぎ》が植付《うえつ》けられた。この苗木のもとに立って、断髪洋装の女子と共に蓄音機の奏する出征の曲を聴いて感激を催す事は、鬢糸《びんし》禅榻《ぜんとう》の歎《たん》をなすものの能《よ》くすべき所ではない。巴里《パリー》には生きながら老作家をまつり込むアカデミイがある。江戸時代には死したる学者を葬る儒者捨場があった。大正文学の遺老を捨てる山は何処にあるか……イヤこんな事を言っていると、わたくしは宛然《さながら》両君がいうところの「生活の落伍者」また「敗残の東京人」である。さればいかなる場合にも、わたくしは、有島、芥川の二氏の如く決然自殺をするような熱情家ではあるまい。数年来わたくしは宿痾《しゅくあ》に苦しめられて筆硯《ひっけん》を廃することもたびたびである。そして疾病《しっぺい》と老耄《ろうもう》とはかえって人生の苦を救う方便だと思っている。自殺の勇断なき者を救う道はこの二者より外はない。老と病とは人生に倦《う》みつかれた卑怯者を徐々に死の門に至らしめる平坦なる道であろう。天地自然の理法は頗《すこぶる》妙《みょう》である。
[#ここから7字下げ]
コノ稿ハ昭和七年三月三十日正宗白鳥君ノ論文ヲ読ミ燈下|匆々《そうそう》筆ヲ走ラセタ。ワガ旧作執筆ノ年代ニハ記憶ノ誤ガアルカモ知レナイ。好事家《こうずか》ハ宜《よろ》シク斎藤昌三氏ノ『現代日本文学大年表』ニ就イテコレヲ正シ給エトイウ。
[#ここで字下げ終わり]



底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11
前へ 次へ
全8ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング