いおい》芸者を離れて演劇女優に移りかけていたので、わたくしは芸者の流行を明治年間の遺習と見なして、その生活風俗を描写して置こうと思ったのである。カッフェーの女給はその頃にはなお女ボーイとよばれ鳥料理屋の女中と同等に見られていたが、大正十年前後から俄《にわか》に勃興して一世を風靡《ふうび》し、映画女優と並んで遂に演劇女優の流行を奪い去るに至った。しかし震災後早くも十年を過ぎた今日では女給の流行もまた既に盛を越したようである。これがわたくしの近著『つゆのあとさき』の出来た所以《ゆえん》である。
 谷崎君はこの拙著を評せられるに当って、わたくしが何のために、また何の感興があって小説をかくかという事を仔細に観察しまた解剖せられた。谷崎君の眼光は作者自身の心づかない処まで鋭く見透していた。
 ここでちょっと井原西鶴について言いたい事がある。世人は元禄の軟文学を論ずる時|必《かならず》西鶴と近松とを並び称しているようであるが、わたくしの見る処では、近松は西鶴に比すれば遥に偉大なる作家である。西鶴の面目は唯その文の軽妙なるに留っている。元禄時代にあって俳諧をつくる者は皆名文家である。芭蕉とその門人|去来《きょらい》東花坊《とうかぼう》の如き皆然りで、独《ひとり》西鶴のみではない。試に西鶴の『五人女』と近松の世話浄瑠璃《せわじょうるり》とを比較せよ。西鶴は市井《しせい》の風聞を記録するに過ぎない。然るに近松は空想の力を仮りて人物を活躍させている。一は記事に過ぎないが一は渾然《こんぜん》たる創作である。ここに附記していう。岡鬼太郎《おかおにたろう》君は近松の真価は世話物ではなくして時代物であると言われたが、わたくしは岡君の言う所に心服している。
 西鶴の価《あたい》を思切って低くして考えれば、谷崎君がわたくしを以て西鶴の亜流となした事もさして過賞とするにも及ばないであろう。
 江戸時代の文学を見るにいずれの時代にもそれぞれ好んで市井の風俗を描写した文学者が現れている。宝暦以後、文学の中心が東都に移ってから、明和年代に南畝《なんぽ》が出で、天明年代に京伝《きょうでん》、文化文政に三馬《さんば》、春水《しゅんすい》、天保に寺門静軒《てらかどせいけん》、幕末には魯文《ろぶん》、維新後には服部撫松《はっとりぶしょう》、三木愛花《みきあいか》が現れ、明治廿年頃から紅葉山人《こうようさんじん》が
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