たのも同じ理由からであろう。実例としては明治四十三年八月に起った水害の後、東京の市民は幾十年を過ぎた今日《こんにち》に至るまで、一度も隅田川の水が上野|下谷《したや》の町々まで汎濫して来たような異変を知らない。その代り河水はいつも濁って澄むことなく、時には臭気を放つことさえあるようになったのも、事に一利あれば一害ありで施すべき道がないものと見える。浅草の観音菩薩《かんのんぼさつ》は河水の臭気をいとわぬ参詣者《さんけいしゃ》にのみ御利益《ごりやく》を与えるのかも知れない。わたくしは言問橋や吾妻橋《あずまばし》を渡るたびたび眉を顰《ひそ》め鼻を掩《おお》いながらも、むかしの追想を喜ぶあまり欄干《らんかん》に身を倚《よ》せて濁った水の流を眺めなければならない。水の流ほど見ているものに言い知れぬ空想の喜びを与えるものはない。薄く曇った風のない秋の日の夕暮近くは、ここのみならず何処《いずこ》の河、いずこの流れも見るには最もよき時であろう。江戸時代からの俗謡にも「夕暮に眺め見渡す隅田川……。」というのがあったではないか。



底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61
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