ったが、震災後|河岸通《かしどおり》の人家が一帯に取払われて今見るような公園になってから言問橋《ことといばし》が架《か》けられて、これは今戸へ通う渡しと共に廃止された。上流の小松島から橋場《はしば》へわたる渡船も大正の初めには早く白鬚橋《しらひげばし》がかけられて乗る人がなくなったので、現在では隅田川に浮ぶ渡船はどこを眺めても見られなくなった。
 わたくしはこれらの渡船の中で今戸の渡しを他処《たしょ》のものより最も興味深く思返さねばならない。何故かというと、この渡場は今戸橋の下を流れる山谷堀《さんやぼり》の川口に近く、岸に上《あが》るとすぐ目の前に待乳山《まつちやま》の堂宇と樹木が聳《そび》えていた故である。しかしこの堂宇は改築されて今では風致に乏しいものとなり、崖の周囲に茂っていた老樹もなくなり、岡の上に立っていた戸田茂睡《とだもすい》の古碑《こひ》も震災に砕かれたまま取除《とりの》けられてしまったので、今日では今戸橋からこの岡を仰いで、「切凧《きれだこ》の夕《ゆう》越え行くや待乳山」の句を思出しても、むかし味ったようなこの辺《あたり》の町の幽雅な趣を思返すことは出来ない。むかし待乳
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング