山の岡の下には一条《ひとすじ》の細い町があって両側に並んでいる店付の質素な商店の中には、今戸焼の陶器や川魚の佃煮《つくだに》を売る店があって、この辺一帯の町を如何にも名所らしく思わせていたが、今はセメントで固めた広い道路となってトラックが砂烟《すなけむり》を立てて走っている。また今戸橋の向岸には慶養寺《けいようじ》という古寺があってここにも樹木が生茂《おいしげ》っていたが、今はもう見られないので、震災前のむかしを知らない人たちには何の趣もない場末の道路としか見られないようになったのも尤《もっとも》である。平坦な道路は山谷堀の流に沿うて吉原の土手をも同じような道路にしたのみならずその辺に残っていた寺々をも大抵残るものなく取払ってしまった。むかしからの伝説は全く消滅して残る処は一ツもない。
今戸橋をわたると広い道路は二筋に分れ、一ツは吉野橋をわたって南千住《みなみせんじゅ》に通じ、一ツは白鬚橋の袂《たもと》に通じているが、ここに瓦斯《ガス》タンクが立っていて散歩の興味はますますなくなるが、むかしは神明神社の境内《けいだい》で梅林もあり、水際には古雅な形の石燈籠《いしどうろう》が立っていたが、今は石炭を積んだ荷船《にぶね》が幾艘《いくそう》となく繋《つなが》れているばかり、橋向《はしむこう》にある昔ながらの白鬚神社や水神《すいじん》の祠《ほこら》の眺望までを何やら興味のないものにしているのも無理はない。向嶋の堤防はこの辺までも平に地ならしされて、同じように自働車やトラックの疾走する処にしている。百花園《ひゃっかえん》は白鬚神社の背後にあるが、貧し気な裏町の小道を辿って、わざわざ見に行くにも及ばぬであろう。むかし土手の下にささやかな門をひかえた長命寺《ちょうめいじ》の堂宇も今はセメント造《づくり》の小家《こいえ》となり、境内の石碑は一ツ残らず取除かれてしまい、牛《うし》の御前《ごぜん》の社殿は言問橋《ことといばし》の袂に移されて人の目にはつかない。かくの如く向嶋の土手とその下にあった建物や人家が取払われて、その跡が現在見るような、向嶋公園と呼ばれる平坦な空地になったのだ。これは荒川の河流が放水路の開通と共に、如何に険悪な天侯にも決して汎濫《はんらん》する恐れがなくなったためかとも思われる。吉原の遊廓外《くるわそと》にあった日本堤《にほんづつみ》の取崩されて平かな道路になっ
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