、折々《をり/\》西洋の漫画に見るやうな一種の趣味に照《てら》して、此後《このご》とも案外長く或《ある》一派の詩人を悦《よろこ》ばす事が出来るかも知れぬ。木下杢太郎《きのしたもくたろう》北原白秋《きたはらはくしう》諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋《つきしまえいたいばし》あたりの生活及び其の風景によつて感興を発したらしく思はれるものが尠《すくな》くなかつた。全く石川島《いしかはじま》の工場を後《うしろ》にして幾艘となく帆柱を連ねて碇泊するさま/″\な日本風の荷船や西洋形の帆前船《ほまへせん》を見ればおのづと特種の詩情が催《もよほ》される。私は永代橋《えいたいばし》を渡る時活動する此の河口《かはぐち》の光景に接するやドオデヱがセヱン河を往復する荷船の生活を描《ゑが》いた可憐なる彼《か》の「ラ・ニベルネヱズ」の一小篇を思出《おもひだ》すのである、今日《こんにち》の永代橋には最早《もは》や辰巳《たつみ》の昔を回想せしむべき何物もない。さるが故に、私は永代橋《えいたいばし》の鉄橋をば却《かへつ》てかの吾妻橋《あづまばし》や両国橋《りやうごくばし》の如くに醜《みに》くいとは思はない。新しい鉄の橋はよく新《あたら》しい河口《かこう》の風景に一致してゐる。

 私が十五六歳の頃であつた。永代橋《えいたいばし》の河下《かはしも》には旧幕府の軍艦が一艘商船学校の練習船として立腐《たちぐさ》れのまゝに繋がれてゐた時分、同級の中学生といつものやうに浅草橋《あさくさばし》の船宿から小舟《こぶね》を借りてこの辺《へん》を漕ぎ廻り、河中《かはなか》に碇泊して居る帆前船《ほまへせん》を見物して、こわい顔した船長から椰子《やし》の実を沢山貰つて帰つて来た事がある。其の折《をり》私達は船長がこの小さな帆前船《ほまへせん》を操《あやつ》つて遠く南洋まで航海するのだといふ話を聞き、全くロビンソンの冒険談を読むやうな感に打たれ、将来自分達もどうにかしてあのやうな勇猛なる航海者になりたいと思つた事があつた。
 矢張《やはり》其の時分の話である。築地《つきぢ》の河岸《かし》の船宿から四挺艪《しちやうろ》のボオトを借りて遠く千住《せんじゆ》の方まで漕ぎ上《のぼ》つた帰り引汐《ひきしほ》につれて佃島《つくだじま》の手前まで下《くだ》つて来た時、突然|向《むかう》から帆を上げて進んで来る大きな高瀬船
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