強いて美食を欲するものでもない。毒にもならずして腹のはるものならば大抵は我慢をして食う。若し自分の口に適したものが是非にもほしいと思う時には、僕は人の手を借らずに自分で料理をつくる癖がある。けれども俗事の輻輳した時にはそうもして居られない。且又炎暑の時節には火をおこして物を煮る気にもなれない。まずいのを忍んで飲食店の料理を食うのが或時には便宜である。これが僕をして遂にカッフェーの客たらしめた理由の一である。
 僕は築地の路地裏から現在の家に琴書を移し運んでより此の方、袖の長い日本服を着たことがない。人に招かれる場合にも靴をぬいで畳の上に坐ることは出来得るかぎり避けている。物を食うにも鳥屋の二階を不便となし、カッフェーを便としている。是が理由の第二である。
 銀座通にカッフェーの流行し始めてから殆《ほとんど》二十年の歳月を経たことは既に述べた。二十年の間に時勢は一変した。時勢の変遷につれて、僕自身の趣味も亦《また》いくらか変化せざるを得ない。いかほど旧習を墨守しようと欲しても到底墨守することの出来ない事がある。おおよそ世の流行は馴るるに従って、其の始め奇異の感を抱かせたものも、姑《しばら
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