しく思われる事があると、手帳にこれを書き留めて置く。一日の天気模様でも、月の夜に虹が出たり、深夜の空に彗星が顕れたりすると、之も同じくその見たままを書き留めて置く。これ等は啻《ただ》に小説執筆の際叙景の資料になるのみならず、古人の書を読む時にも案外やくに立つことがある。僕は曾て木氷というものを見たことがあった。木氷とは樹木の枝に滴る雨の雫が突然の寒気に凍って花の咲いたように見えるのを謂うのである。僕は初木氷の名も知らず、亦これが詩人の喜んで瑞兆となすものであることも知らなかったが、近年に至ってたまたま大窪詩仏の集を読むに及んで始て其等の次第を審にしたのである。
僕が銀座のカッフェーに関して手帳に覚書をして置いたことも尠くはない。左に之を抄録して読者の一※[#「口+據のつくり」、第3水準1−15−24]に供しよう。
「某月某日晩涼ヲ追テ杖ヲ銀座街ニ曳ク。夜市ノ燈火白昼ノ如ク、遊歩ノ男女肩ヲ摩シ踵ヲ接ス。夜熱之ガ為ニ卻テ炎々タリ。避ケテ一酒肆に[#「酒肆に」はママ]入ル。洋風ノ酒肆ニシテ、時人ノ呼ンデカツフヱート称スルモノ即是ナリ。カツフヱーノ語ハモト仏蘭西ヨリ起ル。邦人妄ニ之ヲ借リ来ツ
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