剣のあった其の眼の鋭い事とは、この女の生立ちと経歴とを語って余りあるものの如くに思われた。
僕は相手の気勢を挫《くじ》くつもりで、その言出すのを待たず、「お金のはなしじゃないかね。」というと、お民は「ええ。」と顎《あご》で頷付《うなず》いて、「おぼし召でいいんです。」と泰然として瞬き一ツせず却て僕の顔を見返した。
「おぼし召じゃ困《こま》るね。いくらほしいのだ。」
斯ういう掛合に、此方《こっち》から金額を明言するのは得策でない。先方の口から言出させて、大概の見当をつけ、百円と出れば五拾円と叩き伏せてから、先方の様子を見計らって、五円十円と少しずつせり上げ、結局七八拾円のところで折合うのが、まずむかしから世間一般に襲用された手段である。僕もこのつもりで金高を質問したのである。ところが相手は是まで大分諸処方々無心に歩き廻った事があると見えて、僕よりはずっと馴れているらしい。
「いくらでも結構です。足りなければ又いただきに来ますから。きょうはいくらでも御都合のいいだけで結構です。」
「じゃ、これだけ持っておいでなさい。今日は少し取込んだ用事があるから。」と僕は持合せた拾円紙幣二枚を渡すと、お民はそれを手に取ったまま、暫く黙って僕の顔を見た後、
「後はいつ、いただけるんでしょう。」
「それだけじゃ足りないのかね。」
お民は答えないで、徐に巻煙草をのみはじめた。
「僕はお前さんに金を取られる理由はない筈なんだが、一体どういうわけで、そんな事を言うのだ。」
「わたしカッフェーをやめて、何もしていないから困っているんです。」
「困るなら働きに出ればいいじゃないか。僕はそんな相談をかけられるような弱身はないのだから。そういう事は外に相談をする人があるだろう。お前さんには家まで持たせた旦那があるというはなしじゃないか。」
お民はまた返事をせずに横を向いた。
「兎に角きょうは用があるから。これから出掛けるのだから。おとなしくお帰んなさい。」と僕は立って入口の戸を明けた。
お民は身動きもせず悠然として莨の烟を吹いている。僕は再び「さア。」といって促すと、お民は急に駄々《だだ》をこねるような調子をつくって、
「いいえ。帰りません。」と首を振って見せた。
「帰ってくれというのに帰らないのは穏かでない。それではまるで強請《ゆすり》も同様だ。お前さんがいくら何と云っても僕の方では金を出すべき義務も理由もないのだから。駄目だよ。」
「それでも、わたしお金がいるんですよ。あなたはお金のある人なんだからいいじゃありませんか。持っている人が持っていない人にやるのは当前でしょう。」
「当前なものか。そんな事は露西亜へでも行ったら知らないこと、日本じゃ通らない。兎に角ここで議論をしても仕様がない。一体、お前、いくらほしいのだ。黙っていては困る。ためしに言って見た方がいい。」
「半分いただきたいつもりです。」
「半分。百円の半分か。」
「いいえ。」
「じゃ、千円の半分か。」
「いいえ。」
「じゃ、一体何の半分だ。」ときくと、お民は事もなげに、「あなたの財産の半分。」と云切って、横を向いてまた煙草の烟を天井の方へ吹きかけた。
僕は覚えず吹き出しそうになったのを、辛くも押えて、「兎に角そんな出来ない相談をしたって、暇つぶしはお互に徳の行くはなしじゃないから。どうだ。両方で折合って、百円で一切いざこざ無しという事にしようじゃないか。」
僕は紙入から折好く持合せていた百円札を出してお民に渡した。別に証文を取るにも及ぶまい。此の事件もこれで落着したものと思っていると、四五日過ぎてお民はまた金をねだりに来た。其の言う語と其の態度とは以前よりも一層不穏になっていたので、僕は自身に応接するよりも人を頼んだ方がよいと思って、知合の弁護士を招いて万事を委託した。
書肆改造社の主人山本さんが自動車で僕を迎いに来て、一緒に博文館へ行ってお辞儀をしてくれと言ったのは、弁護士がお民をつれて僕の家を出て行ってから半時間とは過ぎぬ時分であった。山本さんは僕と一緒に博文館へ行って、ぺこぺこ御辞儀をしたら、或は賠償金を出さずに済むかも知れないから、是非そうして下さいと言うのである。お辞儀一つで事が済むなら訳のないことだと、僕は早速承知して主人と共にその自動車に乗り、道普請で凹凸の甚しい小石川の春日町《かすがまち》から指ヶ谷町へ出て、薄暗い横町の阪上に立っている博文館へと馳付けた。稍しばらく控所で待たされてから、女給仕に案内せられて廊下のはずれの方へと連れて行かれるので、館主の大橋さんが面会するのかと思うと、そうではなくて、其の使用人の中の重立ったらしい人の詰めている事務室であった。その人はわたくしの一存では賠償金の多寡は即答する事ができないと云うので、結局はなしはまとまらず、山本さんと僕と
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