僕よりは年が少《わか》い。僕は嫌悪の情に加えて好奇の念を禁じ得なかった。何故なれば、僕は文士ではあるが東京に生れたので、自分ではさほど世間に晦《くら》いとも思っていなかったが、何ぞ図らむ。斯くの如き奇怪なる人物が銀座街上に跋扈《ばっこ》していようとは、僕年五十になろうとする今日まで全く之を知る機会がなかったからである。
 彼等は世に云う無頼の徒であろう。僕も年少の比《ころ》吉原遊廓の内外では屡《しばしば》無頼の徒に襲われた経験がある。千束町から土手に到る間の小さな飲食店で飲んでいると、その辺を縄張り中にしている無頼漢は、必折を窺って、はなしをしかける。これが悶着の端緒である。之を避けるには便所へでも行くふりをして烟の如く姿を消してしまうより外はない。当時の無頼漢は一見して、それと知られる風俗をしていた。身幅のせまい唐桟柄の着物に平ぐけをしめ、帽子は戴かず、言葉使は純粋の町言葉であった。三十年を経て今日銀座のカッフェーに出没する無頼漢を見るに洋服にあらざればセルの袴を穿ち、中には自ら文学者と称していつも小脇に数巻の雑誌数葉の新聞紙を抱えているものもある。其の言語を聞くに多くは田舎の訛りがある。
 ここに最奇怪の念に堪えなかったのは、其等無頼の徒に対して給仕女が更に恐るる様子のないことであった。殊にお民は寧《むしろ》心やすい様子で、一人一人に其姓名を挙げ、「誰々さんとはライオン時代からよく知っているのよ。あの人はあれでもほんとの文士なのよ。翻訳家なのよ。やっぱり郊外にいるから電車の中でもちょいちょい逢う事があるのよ。お酒はよくないらしいわね。」などと言って、僕等が其の無礼なことを語った時には、それとなく弁護するような語調を漏らしたことさえあった。お民は此のカッフェーの給仕女の中では文学|好《ず》きだと言われていた。生田さんが或時「今まで読んだものの中で何が一番面白かったか。」ときくと、お民はすぐに「カラマゾフ兄弟だ。」と答えたことがあった。僕はその時お民の語には全く注意していなかった。僕は最初からカッフェーに働いている女をば、その愚昧なことは芸者より甚しいものと独断していたからである。又文学好きだと言われる婦人は、平生文学書類を手にだもしない女に比すれば却て智能に乏しく、其趣味は遥に低いものだと思っていたからである。然し此等の断定の当っていなかった事は、やがて僕等一同が銀座のカッフェーには全く出入しないようになってから、或日突然お民が僕の家へ上り込んで、金銭を強請した時の、其態度と申条とによって証明せられることになった。お民の態度は法律の心得がなくては出来ないと思われるほど抜目がなく、又其の言うところは全然共産党党員の口吻に類するものがあった。
 書肆博文館が僕に対して版権侵害の賠償を要求して来た其翌日である。正午すこし前、お民は髪を耳かくしとやらに結い、あらい石だたみのような飛白《かすり》お召の単衣《ひとえ》も殊更袖の長いのに、宛然《さながら》田舎源氏の殿様の着ているようなボカシの裾模様のある藤紫の夏羽織を重ね、ダリヤの花の満開とも言いたげな流行の日傘をさして、山の手の静な屋敷町に在る僕の家の門前に現れたのであった。芸者とも女優ともつかぬ此のけばけばしい風俗で良家を訪問することは其家に対しては不穏な言語や兇器よりも、遥に痛烈な脅嚇である。むかしの無頼漢が町家《ちょうか》の店先に尻をまくって刺青《ほりもの》を見せるのと同しである。僕はお民が何のために突然僕の家へ来たのかを問うより先に、松屋呉服店あたりで販売するとか聞いているシャルムーズの羽織一枚で殆前後を忘れるまでに狼狽した。殊にその日は博文館との掛合で、いつもより人の出入の多そうに思われる折とて、何はさて置きお民の姿を玄関先から隠したいばかりに、僕はお民を一室に通すや否や、すぐにその来意を問うとお民は長い袂をすくい上げるように膝の上に載せ、袋の底から物をたぐり出すように巻煙草入を取出し、
「わたし、御存じでしょうけれど、もう銀座はやめにしました。」
「そうだそうですね。この間友達から聞きました。」と僕はそれとなく女の様子を窺いながら次の言葉を待った。するとお民は一向気まりのわるい風もせず、
「きょうはすこしお願いしたいことがあるんです。」と落ちつき払って切り出した。其様子から物言いまで曾てカッフェーにいた時分、壁や窓に倚りかかって、其の辺に置いてある植木の葉をむしり取って、噛んでは吐《は》きだしながら冗談を言っていた時とは、まるで別の人になっている。僕はさてこそと、変化《へんげ》の正体を見届けたような心持で、覚えず其顔を見詰めると、お民の方でもじろりと僕の顔を尻目《しりめ》にかけて壁の懸物へと視線をそらせたが、その瞬間僕の目に映じたお民の容貌の冷静なことと、平生から切長の眼尻に
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