てるがように、カッフェーという名称を用いる都下の店に対して一軒一軒、賠償金を徴発していたら、今頃は松山さんの家は朱頓《しゅとん》の富を誇っていたに相違はない。
カッフェープランタンの創設せられた当初、僕は一夕生田葵山井上唖々の二友と共に、有楽座の女優と新橋の妓とを伴って其のカッフェーに立寄った。入口に近いテーブルに冒険小説家の春浪さんが数人の男と酒を飲んでいたのを見たが、僕等は女連れであったから、別に挨拶もせずに、そのまま楼上に上った。僕等三人は春浪さんがまだ早稲田に学んでいた頃から知合っていた間柄なので、挨拶もせずに二階へ上ったことを失礼だとは思っていなかった。就中《なかんずく》僕は西洋から帰ってまだ間《ま》もない頃のことであったから、女連のある場合、男の友達へは挨拶をせぬのが当然だと思っていた。ところが春浪さんは僕等の見知らぬ男を引連れ、ずかずか二階へ上って来て、まず唖々さんに喧嘩を売りはじめた。僕は学校の教師見たような事をしていた頃なので、女優と芸者とに耳打して、さり気《げ》なく帽子を取り、逸早く外へ逃げだした。後になって当夜の事をきいて見ると、春浪さんは僕等三人が芸者をつれて茶亭に引上げたものと思い、それと推測した茶屋に乱入して戸障子を蹴破り女中に手傷を負わせ、遂に三十間堀の警察署に拘引せられたという事であった。これを聞いて、僕は春浪さんとは断乎として交を絶ったのみならず、カッフェープランタンにも再び出入しなかった。尾張町の四辻にカッフェーライオンの開店したのも当時のことであったが、僕はプランタンの遭難以来銀座辺の酒肆には一切足を踏み入れないようにしていた。
光陰の速なることは奔輪の如くである。いつの間にか二十年の歳月が過ぎた。春浪さんも唖々さんも共に斉《ひと》しく黄泉《よみ》の客となった。二十年の歳月は短きものではない。世の中も変れば従って人情も変った。
大正十五年八月の或夜、僕は晩涼を追いながら、震災後日に日にかわって行く銀座通の景況を見歩いた時、始めて尾張町の四辻に近い唯《と》あるカッフェーに休んだ。それ以来僕は銀座通を通り過る時には折々この店に休んで茶を飲むことにした。
これにはいろいろの理由《わけ》があった。僕は十年来一日に一度、昼飯か晩飯かは外で食《くら》うことにしている。カッフェーの料理は殆ど口には入れられないほど粗悪であるが、然し僕は
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