フよい女優のツバメとやらになる情慾もない。金を獲るには蟻が物を運ぶが如く、又点滴の雫が甃石《しきいし》に穴を穿つが如く根気よく細字を書くより外に道がない。
二の難事はいかに解決するだろう。解決のしかたによっては、僕は家を売り蔵書を市に鬻《ひさ》いで、路頭に彷徨する身となるかも知れない。僕は仏蘭西人が北狄《ほくてき》の侵略に遭い国を挙げてマルンの水とウェルダンの山とを固守した時と同じ場合に立った。痩せ細った総身の智略を振絞って防備の陣を張らなくてはならない。防備の陣を張るにも先立つものは矢張金である。金を獲るには僕の身としては書くのが一番の捷径《しょうけい》であろう。恥も糞もあるものかと思いさだめて、一気呵成に事件の顛末を、まずここまで書いて見たから、一寸一服、筆休めに字数と紙数とをかぞえよう。
そもそも僕が始て都下にカッフェーというもののある事を知ったのは、明治四十三年の暮春洋画家の松山さんが銀座の裏通なる日吉町にカッフェーを創設し、パレット形の招牌を掲げてプランタンという屋号をつけた際であった。僕は開店と言わずして特に創設という語を用いた。如何となれば巴里風のカッフェーが東京市中に開かれたのは実に松山画伯の AU PRINTEMPS を以て嚆矢《こうし》となすが故である。当時都下に洋酒と洋食とを鬻ぐ店舗はいくらもあった。又カウンターに倚《よ》りかかって火酒を立飲する亜米利加風の飲食店も浅草公園などには早くから在ったようであるが、然し之を呼ぶにカッフェーの名を以てしたものは一軒もなかった。カッフェーの名の行われる以前、この種類の飲食店は皆ビーヤホールと呼ばれていた。されば松山画伯の飲食店は其の実に於ては或は創設の功を担わしめるには足りないかも知れぬが、其の名に於ては確に流布の功があった。当時都人の中にはカッフェーの義の何たるかを知らず、又これを呼ぼうとしても正確にFの音を発することのできない者も鮮くなかった。然るに二十年後の今日に到っては日本全国ビーヤホールの名を掲げて酒を估《う》る店は一軒もなく、※[#「にんべん+倉」、第4水準2−1−77]父《そうふ》も滑《なめらか》に 〔Cafe'〕 の発音をなし得るようになった。
さればカッフェーの創設者たる松山画伯にして、狡智に長《た》けたること、若しかの博文館が二十年前に出版した書物の版権を、今更云々して賠償金を取立
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