。癪《しゃく》に障《さわ》って忌々《いまいま》しいが叱り飛す張合もない。災難だと諦めた。乗り合わした他の連中は頻に私に同情して、娘とその伴《つれ》の図々しい間抜な態度を罵《ののし》った。飛沫《とばっちり》を受けたので、眉を顰《ひそ》めながら膝を拭いている婆さんや、足袋《たび》の先を汚された職人もいたが、一番迷惑したのは私であった。黒江《くろえ》町で電車を下りると、二人に逢った。今これこれだと阿久に話すと、人に歩かせて、自分は楽をしたものだから、その罰だと笑いながらも、汚れた羽織《はおり》の仕末には困った顔をした。幸いとお神さんの亭主の妹の家が八幡様《はちまんさま》の前だというので、そこへ行って羽織だけ摘《つま》み洗いをしてもらうことにして、その間寒さを堪えて公園の中で待っていた。芝居へ入って前の方の平土間《ひらどま》へ陣取る。出方《でかた》は新次郎と言って、阿久の懇意な男であった。一番目は「酒井の太鼓」で、栄升の左衛門、雷蔵の善三郎と家康、蝶昇の茶坊主と馬場、高麗三郎の鳥居、芝三松の梅ヶ枝などが重立《おもだ》ったものであった。道具の汚いのと、役者の絶句と、演芸中に舞台裏で大道具の釘を打つ音が台辞《せりふ》を邪魔することなぞは、他では余り見受けない景物である。寒い芝居小屋だ。それに土間で小児の泣く声と、立ち歩くのを叱る出方の尖《とが》り声とが耳障りになる。中幕の河庄では、芝三松の小春、雷蔵の治兵衛、高麗三郎の孫右衛門、栄升の太兵衛に蝶昇の善六。二番目は「河内山」で蝶昇が勤めた。雷蔵の松江侯と三千歳、高麗三郎の直侍《なおざむらい》などで、清元《きよもと》の出語りは若い女で、これは馬鹿に拙《まず》い。延久代という名取名《なとりな》を貰っている阿久は一々節廻しを貶《けな》した。捕物の場で打出し。お神さんの持って来た幸寿司で何も取らず、会計は祝儀を合せて二円二十三銭也。芝居の前でお神さんに別れて帰りに阿久と二人で蕎麦屋《そばや》へ入った。歩いて東森下町の家まで帰った時が恰度《ちょうど》夜の十二時。
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 かつて深川座のあった処は、震災後道路が一変しているので、今は活動館のあるあたりか、あるいは公設市場のあるあたりであるのか、たまたま散歩するわたくしには判然しない。
 むかしの黒江橋《くろえばし》は今の黒亀橋《くろかめばし》のあるあたりであろう。即ちむかし閻魔堂橋《えんまどうばし》のあったあたりである。しかし今は寺院の堂宇も皆新しくなったのと、交通のあまりに繁激となったため、このあたりの町には、さして政策の興をひくべきものもなく、また人をして追憶に耽らせる余裕をも与えない。かつて明治座の役者たちと共に、電車通の心行寺《しんぎょうじ》に鶴屋南北《つるやなんぼく》の墓を掃《はら》ったことや、そこから程遠からぬ油堀の下流に、三角屋敷の址《あと》を尋ね歩いたことも、思えば十余年のむかしとなった。(三角屋敷は邸宅の址ではない。堀割の水に囲まれた町の一部が三角形をなしているので、その名を得たのである。)
 今日の深川は西は大川の岸から、東は砂町《すなまち》の境に至るまで、一木一草もない。焼跡の空地に生えた雑草を除けば、目に映ずる青いものは一ツもない。震災後に開かれた一直線の広い道路と、むかしから流れている幾筋の運河とが、際限なき焦土の上に建てられた臨時の建築物と仮小屋とのごみごみした間を縦横に貫き走っている処が、即ち深川だといえば、それで事は尽きてしまうのである。
 災後、新に開かれたセメント敷《じき》の大道《だいどう》は、黒亀橋から冬木町《ふゆきちょう》を貫き、仙台堀に沿うて走る福砂通《ふくさどおり》と称するもの。また清洲橋から東に向い、小名木川と並行して中川を渡る清砂通《きよさどおり》と称するもの。この二条の新道が深川の町を西から東へと走っている。また南北に通ずる新道にして電車の通らないものが三筋ある。これらの新道はそのいずれを歩いても、道幅が広く、両側の人家は低く小さく、処々に広漠たる空地《あきち》があるので、青空ばかりが限りなく望まれるが、目に入るものは浮雲の外には、遠くに架っている釣橋の鉄骨と瓦斯《ガス》タンクばかりで、鳶《とんび》や烏の飛ぶ影さえもなく、遠い工場の響が鈍く、風の音のように聞える。昼中《ひるなか》でも道行く人は途絶えがちで、たまたま走り過る乗合自動車には女車掌が眠そうな顔をして腰をかけている。わたくしは夕焼の雲を見たり、明月を賞したり、あるいはまた黙想に沈みながら漫歩するには、これほど好《よ》い道は他にない事を知った。それ以来下町へ用足しに出た帰りには、きまって深川の町はずれから砂町の新道路を歩くのである。
 歩きながら或日ふと思出したのは、ギヨーム・アポリネールの『坐せる女』と題する小説である。この小説の中に、かつてシャンパンユの平和なる田園に生れて巴里《パリー》の美術家となった一青年が、爆裂弾のために全村|尽《ことごと》く破滅したその故郷に遊び、むかしの静な村落が戦後一変して物質的文明の利器を集めた一新市街になっているのを目撃し、悲愁の情と共にまた一縷《いちる》の希望を感じ、時勢につれて審美の観念の変動し行くことを述べた深刻な一章がある。
 災後、東京の都市は忽ち復興して、その外観は一変した。セメントの新道路を逍遥して新しき時代の深川を見る時、おくれ走《ば》せながら、わたくしもまた旧時代の審美観から蝉脱《せんだつ》すべき時の来《きた》った事を悟らなければならないような心持もするのである。
 木場《きば》の町にはむかしのままの堀割が残っているが、西洋文字の符号をつけた亜米利加《アメリカ》松の山積《さんせき》せられたのを見ては、今日誰かこの処を、「伏見に似たり桃の花」というものがあろう。モーターボートの響を耳にしては、「橋台に菜の花さけり」といわれた渡場《わたしば》を思い出す人はない。かつて八幡宮の裏手から和倉町《わくらまち》に臨む油堀のながれには渡場の残っていた事を、わたくしは唯夢のように思返すばかりである。
 冬木町の弁天社は新道路の傍《かたわら》に辛くもその祉を留めている。しかし知十翁《ちじゅうおう》が、「名月や銭金いはぬ世が恋ひし。」の句碑あることを知っているものが今は幾人あるであろう。(因《ちなみ》にいう。冬木町の名も一時廃せられようとしたが、居住者のこれを惜しんだ事と、考証家島田筑波氏が旧記を調査した小冊子を公刊した事とによって、纔《わずか》に改称の禍《わざわい》を免れた。)
 冬木弁天の前を通り過ぎて、広漠たる福砂通《ふくさどおり》を歩いて行くと、やがて真直に仙台堀に沿うて、大横川《おおよこがわ》の岸に出る。仙台堀と大横川との二流が交叉《こうさ》するあたりには、更にこれらの運河から水を引入れた貯材池がそこ此処《ここ》にひろがっていて、セメントづくりの新しい橋は大小幾筋となく錯雑している。このあたりまで来ると、運河の水もいくらか澄んでいて、荷船《にぶね》の往来もはげしからず、橋の上を走り過るトラックも少く、水陸いずこを見ても目に入るものは材木と鉄管ばかり。材木の匂を帯びた川風の清凉なことが著しく感じられる。深川もむかし六万坪と称えられたこのあたりまで来ると、案外空気の好い事が感じられるのである。
 崎川橋《さきかわばし》という新しいセメント造りの橋をわたった時、わたくしは向うに見える同じような橋を背景にして、炭のように黒くなった枯樹《かれき》が二本、少しばかり蘆《あし》のはえた水際から天を突くばかり聲え立っているのを見た。震災に焼かれた銀杏《いちょう》か松の古木であろう。わたくしはこの巨大なる枯樹のあるがために、単調なる運河の眺望が忽ち活気を帯び、彼方《かたた》の空にかすむ工場の建物を背景にして、ここに暗欝なる新しい時代の画図をつくり成している事を感じた。セメントの橋の上を材木置場の番人かと思われる貧し気な洋服姿の男が、赤児《あかご》を背負った若い女と寄添いながら歩いて行く。その跫音《あしおと》がその姿と共に、橋の影を浮べた水の面《おもて》をかすかに渡って来るかと思うと忽ち遠くの工場から一斉に夕方の汽笛が鳴り出す……。わたくしは何となくシャルパンチエーの好んで作曲するオペラでもきくような心持になることができた。
 セメントの大通は大横川を越えた後、更に東の方に走って十間川を横切り砂町《すなまち》の空地に突き入っている。砂町は深川のはずれのさびしい町と同じく、わたくしが好んで蒹葭《けんか》の間に寂寞を求めに行くところである。折があったら砂町の記をつくりたいと思っている。
[#地から2字上げ]甲戌《こうじゅつ》十一月記



底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年4月15日作成
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