時は快くこれを与えながら、更に報酬を受けなかった。
夜烏子は山の手の町に居住している人たちが、意義なき体面に累《わずら》わされ、虚名のために齷齪《あくせく》しているのに比して、裏長屋に棲息している貧民の生活が遥に廉潔《れんけつ》で、また自由である事をよろこび、病余失意の一生をここに隠してしまったのである。或日一家を携えて、場末の小芝居《こしばい》を看《み》に行く日記の一節を見ると、夜烏子の人生観とまた併せてその時代の風俗とを窺うことができる。
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明治四十四年二月五日。今日は深川座へ芝居を見に行くので、店から早帰りをする。製本屋のお神《かみ》さんと阿久《おひさ》とを先に出懸けさせて、私は三十分ばかりして後から先になるように電車に乗った。すると霊岸町《れいがんちょう》の手前で、田舎丸出しの十八、九の色の蒼《あお》い娘が、突然|小間物店《こまものみせ》を拡《ひろ》げて、避ける間もなく、私の外出着の一張羅《いっちょうら》へ真正面《まとも》に浴せ懸けた。私は詮《せん》すべを失った。娘の兄らしい兵隊は無言で、親爺らしい百姓が頻《しきり》に詫びた。娘は俯向いてこそこそと降りた
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