上野
永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)後《のち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)南北|険《ホトン》ド
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「梟」の「木」に代えて「衣」、第3水準1−91−74]
[#…]:返り点
(例)長裾休[#レ]曳此蕭森
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ガラ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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震災の後上野の公園も日に日に旧観を改めつつある。まず山王台東側の崖に繁っていた樹木の悉く焼き払われた後、崖も亦その麓をめぐる道路の取ひろげに削り去られ、セメントを以て固められたので、広小路のこなたから眺望する時、公園入口の趣は今までとは全く異るようになった。池の端仲町の池に臨んだ裏通も亦柳の並木の一株も残らず燬かれてしまった後《のち》、池と道路との間に在った溝渠は埋められて、新に広い街路が開通せられた。この溝渠には曾て月見橋とか雪見橋とか呼ばれた小さな橋が幾条《いくすじ》もかけられていたのであるが、それ等旧時の光景は今はわずかに小林清親の風景板画に於てのみ之を見るものとなった。
池の端を描いた清親の板画は雪に埋れた枯葦の間から湖心遥に一点の花かとも見える弁財天の赤い祠を望むところ、一人の芸者が箱屋を伴い吹雪に傘をつぼめながら柳のかげなる石橋を渡って行く景である。この板画の制作せられたのは明治十二三年のころであろう。当時池之端数寄屋町の芸者は新柳二橋の妓と頡頏《けっこう》して其品致を下さなかった。さればこの時代に在って上野の風景を記述した詩文雑著のたぐいにして数寄屋町の妓院に説き及ばないものは殆《ほとんど》無い。清親の風景板画に雪中の池を描いて之に妓を配合せしめたのも蓋《けだし》偶然ではない。
上野の始て公園地となされたのは看雨隠士なる人の著した東京地理沿革誌に従えば明治六年某月である。明治十年に至って始て内国勧業博覧会がこの公園に開催せられた。当時上野なる新公園の状況を記述するもの箕作秋坪の戯著小西湖佳話にまさるものはあるまい。
箕作秋坪は蘭学の大家である。旧幕府の時開成所の教官となり、又外国奉行の通訳官となり、両度欧洲に渡航した。維新の後私塾を開いて生徒を教授し、後に東京学士会院会員に推挙せられ、ついで東京教育博物館長また東京図書館長に任ぜられ、明治十九年十二月三日享年六十三で歿した。秋坪は旧幕府の時より成島柳北と親しかったので、その戯著小西湖佳話は柳北の編輯する花月新誌の第四十四号からその誌上に連載せられた。佳話の初にまず公園の勝概が述べてある。わたくしは例によって原文を次の如く訓《よ》み下《くだ》す。
「忍ヶ岡ハ其ノ東北ニ亘リ一山皆桜樹ニシテ、矗々タル松杉ハ翠ヲ交ヘ、不忍池ハ其ノ西南ヲ匝《メグ》ル。満湖悉ク芙蓉ニシテ※[#「梟」の「木」に代えて「衣」、第3水準1−91−74]々タル楊柳ハ緑ヲ罩ム。雲山烟水実ニ双美ノ地ヲ占メ、雪花風月、優ニ四時ノ勝ヲ鍾《アツ》ム。是ヲ東京上野公園トナス。其ノ勝景ハ既ニ多ク得ル事難シ。況ヤ此ノ盛都紅塵ノ中ニ在ツテ此ノ秀霊ノ境ヲ具フ。所謂錦上更ニ花ヲ加ル者、蓋亦絶テ無クシテ僅ニ有ル者ナリ。[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]近歳官此ノ山水ノ一区ヲ修メ以テ公園トナス。囿方数里。車馬ノ者モ往キ、杖履ノ者モ往ク。民偕ニ之ヲ楽ンデ其大ナルヲ知ラズ。京中都人士ガ行楽ノ地、実ニ此ヲ以テ最第一トナス。」
上野の桜は都下の桜花の中最早く花をつけるものだと言われている。飛鳥山隅田堤御殿山等の桜はいずれも上野につぐものである。之を小西湖佳話について見るに、「東台ノ一山処トシテ桜樹ナラザルハ無シ。其ノ単弁淡紅ニシテ彼岸桜ト称スル者最多シ。古又嘗テ吉野山ノ種ヲ移植スト云フ。毎歳立春ノ後五六旬ヲ開花ノ候トナス。」としてある。そして桜花満開の時の光景を叙しては、「若シ夫レ盛花爛漫ノ候ニハ則全山弥望スレバ恰是一団ノ紅雲ナリ。春風駘蕩、芳花繽紛トシテ紅靄崖ヲ擁シ、観音ノ台ハ正ニ雲外ニ懸ル。彩霞波ヲ掩ヒ不忍ノ湖ハ頓ニ水色ヲ変ズ。都人士女堵ヲ傾ケ袂ヲ連ネ黄塵一簇雲集群遊ス。車馬旁午シ綺羅絡繹タリ。数騎銜ヲ駢ベ鞍上ニ相話シテ行ク者ハ洋客ナリ。龍蹄砂ヲ蹴ツテ高蓋四輪、輾リ去ル者ハ華族ナリ。女児一群、紅紫隊ヲ成ス者ハ歌舞教師ノ女弟子ヲ率ルナリ。雅人ハ則紅袖翠鬟ヲ拉シ、三五先後シテ伴ヲ為シ、貴客ハ則嬬人侍女ヲ携ヘ一歩二歩相随フ。官員ハ則黒帽銀※[#「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1−89−60]、書生ハ則短衣高屐、兵隊ハ則洋服濶歩シ、文人ハ則瓢酒ニシテ逍遥ス。茶肆ノ婢女冶装妖飾、媚ヲ衒ヒ客ヲ呼ブ。而シテ樹下ニ露牀ヲ設ケ花間ニ氈席ヲ展ベ、酒ヲ煖メ盃ヲ侑ム。遊人嘔唖歌吹シ遅遅タル春日興ヲ追ヒ歓ヲ尽シテ、惟夕照ノ西ニ没シ鐘声ノ暮ヲ報ズルヲ恨ムノミ。」となしている。
桜花は上野の山内のみならず其の隣接する谷中の諸寺院をはじめ、根津権現の社地にも古来都人の眺賞した名木が多くある。斎藤月岑の東都歳事記に挙ぐるものを見れば、谷中日暮里の養福寺、経王寺、大行寺、長久院、西光寺等には枝垂桜があり、根津の社内、谷中天王寺と瑞輪寺には名高い八重咲の桜があったと云う。
一昨年の春わたくしは森春濤の墓を掃《はら》いに日暮里の経王寺に赴いた時、その門内に一樹の老桜の、幹は半から摧《くだ》かれていながら猶全く枯死せず、細い若枝の尖《さき》に花をつけているのを見た。また今年の春には谷中瑞輪寺に杉本樗園の墓を尋ねた時、門内の桜は既に散っていたが、門外に並んだ数株の老桜は恰も花の盛であったのみならず、わたくしは其幹の太さより推測して是或は江戸時代の遺物ではあるまいかと、暫く佇立《たたず》んでその梢を瞻望《せんぼう》した。是日また大行寺の門前を通り過ぎて、わたくしは偶然東都歳事記に記載せられた垂糸桜の今猶すこやかである事をも知ったのである。わたくしは桜花の種類の多きが中に就いて其の樹姿の人工的に美麗なるを以て、垂糸桜を推して第一とする。
谷中天王寺は明治七年以後東京市の墓地となった事は説くに及ぶまい。墓地本道の左右に繁茂していた古松老杉も今は大方枯死し、桜樹も亦古人の詩賦中に見るが如きものは既に大抵烏有となったようである。根津権現の花も今はどうなったであろうか。
根津権現の社頭には慶応四年より明治二十一年まで凡二十一年間遊女屋の在ったことは今猶都人の話柄に上る所である。小西湖佳話に曰く「湖北ノ地、忍ヶ岡ト向ヶ岡トハ東西相対ス。其間一帯ノ平坦ヲ成ス。中ニ花柳ノ一郭アリ。根津ト曰フ。地ハ神祠ニ因ツテ名ヲ得タリ。祠ハ即根津神社ナリ。祠宇壮麗。祠辺一区ノ地、之ヲ曙ノ里ト称シ、林泉ノ勝ニ名アリ。丘陵苑池、樹石花草巧ニ景致ヲ成ス。而シテ園中桜樹躑躅最多ク、亦自ラ遊観行楽ノ一地タリ。祠前ノ通衢、八重垣町須賀町、是ヲ狭斜ノ叢トナス。此地ノ狭斜ハ天保以前嘗テ一タビ之ヲ開ク。未ダ幾クナラズシテ官新令ヲ下シ、命ジテ之ヲ徹シ去ル。安政中北里災ニ罹リ一時仮館ヲ此ニ設ク。明治ノ初年ニ至リ官復許シテ之ヲ興ス。爾来今ニ至ツテ日ニ昌ニ月ニ盛ナリ。家家娉※[#「女+亭」、第3水準1−15−85]ヲ貯ヘ、戸戸婀娜ヲ養フ。紅楼翠閣。一簇ノ暖烟ヲ屯ス。妓院ノ数今七八十戸ニ下ラズト云フ。」
わたくしは先年坊間の一書肆に於て饒歌余譚と題した一冊の写本を獲たことがある。作者は苔城松子雁戯稿となせるのみで、何人なるやを詳にしない。然しこの書は明治十年西南戦争の平定した後凱旋の兵士が除隊の命を待つ間一時谷中辺の寺院に宿泊していた事を記述し、それより根津駒込あたりの街の状況を説くこと頗《すこぶる》精細である。是亦明治風俗史の一資料たることを失わない。殊に根津遊廓のことに関しては当時の文書にして其沿革を細説したものが割合に少いので、わたくしは其長文なるを厭わず饒歌余譚の一節をここに摘録する事とした。徒に拙稿の紙数を増して売文の銭を貪らんがためではない。わたくしは此のたびの草稿に於ては、明治年間の東京を説くに際して、寡聞の及ぶかぎり成るべく当時の人の文を引用し、之に因って其時代の世相を窺《うかがい》知らしめん事を欲しているのである。
松子雁の饒歌余譚に曰く「根津ノ新花街ハ方今第四区六小区中ノ地ニ属ス。三面ハ渾《スベ》テ本郷駒籠谷中ノ阻台ヲ負ヒ、南ノ一方|劣《ワヅカ》ニ蓮池ヲ抱ク。尤モ僻陬ノ一小廓ナリ。莫約《オホヨソ》根津ト称スル地藩ハ東西二丁ニ充タズ、南北|険《ホトン》ド三丁余。之ヲ七箇町ニ分割ス。則曰ク七軒町、曰ク宮永町、曰ク片町等ハ倶ニ皆廓外ニシテ旧来ノ商坊ナリ。曰ク藍染町、曰ク清水町、曰ク八重垣町等ハ僉《ミナ》廓内ニシテ再興以来ノ新巷ナリ。爾《シカ》シテ花街ハ其ノ三分ノ一ニ居ル。昔日ハ即根津権現ノ社内ニシテ而モ久古ノ柳巷《イロザト》ナリ。卒《ツヒ》ニ天保ノ改革ニ当ツテ永ク廃斥セラル。然レドモ猶|有縁《ユカリ》ノ地タルヲモツテ、吉原回禄ノ災ニ罹ル毎ニ、権《シバラ》ク爰《ココ》ニ仮肆《カリタク》ヲ設ケテ一時ノ栄ヲ取ルコト也最《マタ》数回ナリ。其ノ後慶応年間ニ至ツテ、松葉屋某ナル者|魁主《ホツキニン》トナリ、遂ニ旧府ノ許可ヲ禀クルヤ、同志|厠与《アヒトモ》ニ助ケテ以テ稍《ヤウヤ》ク二三ノ楼ヲ営ム。其ノ創立ノ妓楼トイフモノハ則曰ク松葉屋、曰ク大黒屋、曰ク小川屋[#ここから割り注]今東楼ニ改ム[#ここで割り注終わり]曰ク吉田屋[#ここから割り注]後ニ滅却ス現在ノ吉田屋ハ自異ル[#ここで割り注終わり]曰ク金邑屋[#ここから割り注]後ニ岩村楼ニ革メ又吉野屋ニ革ム[#ここで割り注終わり]此ノ他|局店《ツボネミセ》ハ曰ク三福長屋、曰ク恵比寿長屋等各三四戸アリ。徒《タダ》コレニ過ギズ。然ルニ皇制ノ余沢僻隅ニ澆浩シ維新以降漸次ソノ繁昌ヲ得タリ。乍《タチマ》チニシテ島原ノ妓楼廃止セラレテ那ノ輩這ノ地ニ転ジ、新古互ニ其ノ栄誉ヲ競フニオヨンデ、好声一時ニ騰々タルコトヲ得タリ。[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]現在|大楼《オオミセ》ト称スル者今其ノ二三ヲ茲ニ叙スレバ即曰ク松葉楼[#ここから割り注]俚俗大松葉ト称ス即創立松葉屋是也[#ここで割り注終わり]曰ク甲子楼[#ここから割り注]即創立大黒屋是也[#ここで割り注終わり]曰ク八幡楼、曰ク常盤楼、曰ク姿楼、曰ク三木楼等、維們《コレラ》最モ群ヲ出ヅ。漸次之ニ序《ツ》グ者、則チ曰ク大磯屋、曰ク勝松葉、曰ク湊屋、曰ク林屋、曰ク新常磐屋、曰ク吉野屋、曰ク伊住屋、曰ク武蔵屋、曰ク新丸屋、曰ク吉田屋等極メテ美ナリ。自余《コノホカ》或ハ小店ト称シ、或ハ五軒ト号《ナヅ》ケ、或ハ局ト呼ブ者ノ若キハ曾テ算フルニ遑アラズ。[#ここから割り注]中略[#ここで割り注終わり]且又茶屋ハ梅本、家満喜、岩村等ト曰フモノ大ニ優ル。自余《コノホカ》大和屋、若松、桝三河ト曰フモノ僉《ミナ》創立ノ旧家ナリト雖亦|杳《ハルカ》ニ之ニ劣レリ。将又券番、暖簾《ウチゲイシヤ》等ノ芸妓ニ於テハ先ヅ小梅、才蔵、松吉、梅吉、房吉、増吉、鈴八、小勝、小蝶、小徳|們《ラ》、凡四十有余名アリ。其他ハ当所ノ糟粕ヲ嘗ムル者、酒店魚商ヲ首トシテ浴楼《ユヤ》箆頭肆《カミユヒドコ》ニ造《イタ》ルマデ幾ド一千余戸ニ及ベリ。総テ這地《コノチ》ノ隆盛ナル反ツテ旧趾ノ南浜新駅《シナガハシンジユク》ヲ羞シムベキ景勢ナリ。然リト雖モ其ノ諸《コレ》ヲ吉原ニ比較スレバ縦《タト》ヘ大楼ト謂フ可キモ亦カノ半籬ニモ及ブ可カラズ。其ノ余ハ推シテ量ル可キナリ矣。」
根津の遊里は斯くの如く一時繁栄を極めたが、明治二十一年六月三十日を限りとして取払われ、深川洲崎の埋立地に移転を命ぜられた。娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなったが、独八幡楼の跡のみ、其の庭園の向ヶ岡の阻崖に面して頗《すこぶる》幽邃《ゆうすい》の趣をなしていたので、娼楼の建物をその儘に之を温泉旅館となして営業をなすものがあ
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