たらんとしたのである。又狭斜の巷に在っては「池の端の御前」の名を以て迎えられていた。居士が茅町の邸は其後主人の木挽町合引橋に移居した後まで永く其の儘に残っていたので、わたくしも能く之を見おぼえている。家は軽快なる二階づくりで其の門墻も亦極めていかめしからざるところ、われわれの目には富商の隠宅か或は旗亭かとも思われた位で、今日の紳士が好んで築造する邸宅とは全く趣を異にしたものであった。
 茅町の岸は本郷向ヶ岡の丘阜を背にし東に面して不忍池と上野の全景とを見渡す勝概の地である。然しわたくしの知人で曾てこの地に卜居した者の言う所によれば、土地陰湿にして夏は蚊多く冬は湖上に東北の風を遮るものがないので寒気甚しくして殆ど住むに堪えないと云うことである。
 不忍池の周囲は明治十六七年の頃に埋立てられて競馬場となった。一説に明治十八年とも云う。中根淑の香亭雅談を見るに「今歳ノ春都下ノ貴紳相議シテ湖ヲ環ツテ闘馬ノ場ヲ作ル。工ヲ発シ混沌ヲ鑿ル。而シテ旧時ノ風致全ク索《ツ》ク矣。」と言っている。雅談の成った年は其序によって按ずれば癸未暮春[#ここから割り注]明治十六年[#ここで割り注終わり]である。また巻
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