の名は金《きん》に始まる事|陶九成《とうきゅうせい》が『輟耕録《てっこうろく》』に「唐有伝奇[#「唐有伝奇」に傍点]。宋有戯曲渾詞説[#「宋有戯曲渾詞説」に傍点]。金有院本雑劇其実一也[#「金有院本雑劇其実一也」に傍点]。」〔唐《とう》に伝奇《でんき》有《あ》り。宋《そう》に戯曲、渾《こん》、詞説《しせつ》有り。金《きん》に院本《いんぽん》、雑劇《ざつげき》有り、其《そ》の実《じつ》は一なり。〕とあるによりて知らる。これ鷲津毅堂《わしづきどう》先生が『親燈余影《しんとうよえい》』に出でたり。
一 鴎外先生若き頃バイロンの詩を訳せらるるに何の苦もなく漢字を以て韻《いん》を押し平灰《ひょうそく》まで合せられたり。一芸に秀《ひい》づるものは必ず百芸に通ず。これ一事《いちじ》を究《きわ》め貫《つらぬ》かんと欲すればおのづから関聯《かんれん》して他の事に及ぶが故なり。細井広沢《ほそいこうたく》は書家なれど講談で人の知つたる堀部安兵衛《ほりべやすべえ》とは同門の剣客《けんかく》にて絵も上手なり。当世の文士小説かくと六号活字の文壇消息に憎まれ口きくだけが能《のう》とはあまりに潰《つぶ》しがきかな過ぎる話。物貨騰貴《ぶっかとうき》の世の中どつちへ転んでも少しは金の取れる余技一、二種ありてもよささうなもの也。
一 たまたま柳里恭《りゅうりきょう》の『画談』といふものを見しに、次の如き条《くだり》あり。曰く総じて世の中には井《い》の蛙《かわず》多し梁唐宋元明《りょうとうそうげんみん》の名ある画《が》を見ることなき故に絵に力なし。千里を行《ゆく》も爪先《つまさき》の向けやうにて始まる者なれば物事は目の附けやうこそ大切なれ。善き所に目を附けて学ぶ人は早くその可《か》を悟り悪しき所に目を附け学ぶ人は老に至るもその不可《ふか》を知らず。例へば彼の蠅は一丁か二丁ばかりは精出して飛びそれより外に飛びもならぬ者なれど馬の背なぞにひよつと止まりぬれば一日に十里も行くが如し云々《しかじか》。
一 おのれ初学のものに月刊文学雑誌または新聞紙文芸欄なぞにいづる批評を目にする勿《なか》れと戒しむるは世に有益なる書物聞くに足るべき学者の説あるに、それはさて置きかかるものに目をつくるは即ち「悪しき処に目をつくるもの」なればなり。文学雑誌の投書欄に小品文短篇小説なぞの掲載せらるるを無上の喜びとなすものはまづ大成の見
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