色《ねいろ》。何という果敢《はかな》い、消えも入りたき哀れを催させるのであろう。かつてそれほどに、まだ自己を知らなかった得意の時分に、先生は長たらしい小説を書いて、その一節に三味線と西洋音楽の比較論なぞを試みた事を思返す。世の中には古社寺《こしゃじ》保存の名目の下《もと》に、古社寺の建築を修繕するのではなく、かえってこれを破壊もしくは俗化する山師があるように、邦楽の改良進歩を企てて、かえって邦楽の真生命を殺してしまう熱心家のある事を考え出す。しかし先生はもうそれらをば余儀ない事であると諦めた。こんな事をいって三味線の議論をする事が、已に三味線のためにはこの上もない侮辱《ぶじょく》なのである。江戸音曲《えどおんぎょく》の江戸音曲たる所以《ゆえん》は時勢のために見る影なく踏みにじられて行く所にある。時勢と共に進歩して行く事の出来ない所にある。然《しか》も一思《ひとおも》いに潔《いさぎよ》く殺され滅されてしまうのではなく、新時代の色々な野心家の汚《きたな》らしい手にいじくり廻されて、散々|慰《なぐさ》まれ辱《はずか》しめられた揚句《あげく》、嬲《なぶ》り殺しにされてしまう傷《いたま》しい運命。それから生ずる無限の哀傷が、即ち江戸音曲の真生命である。少くともそれは二十世紀の今日《こんにち》洋服を着て葉巻を吸いながら聞くわれわれの心に響くべき三味線の呟《つぶや》きである。さればこれを改良するというのも、あるいはこれを撲滅するというのも、いずれにしても滅び行く三味線の身に取っては同じであるといわねばならぬ。珍々先生が帝国劇場において『金毛狐《きんもうこ》』の如き新曲を聴く事を辞さないのは、つまり灰の中から宝石を捜出《さがしだ》すように、新しきものの処々にまだそのまま残されている昔のままの節附《ふしづけ》を拾出す果敢い楽しさのためである。同時に擬古派の歌舞伎座において、大薩摩《おおざつま》を聞く事を喜ぶのは、古きものの中にも知らず知らず浸み込んだ新しい病毒に、遠からず古きもの全体が腐って倒れてしまいそうな、その遣瀬《やるせ》ない無常の真理を悟り得るがためである。思えばかえって不思議にも、今日という今日まで生残った江戸音曲の哀愁をば、先生はあたかも廓《くるわ》を抜け出で、唯《ただ》一人闇の夜道を跣足《はだし》のままにかけて行く女のようだと思っている。たよりの恋人に出逢った処で、末永く添い遂げられるというではない。互に手を取って南無阿弥陀仏と死ぬばかり。もし駕籠《かご》かきの悪者に出逢ったら、庚申塚《こうしんづか》の藪《やぶ》かげに思うさま弄ばれた揚句、生命《いのち》あらばまた遠国《えんごく》へ売り飛ばされるにきまっている。追手《おって》に捕《つか》まって元の曲輪《くるわ》へ送り戻されれば、煙管《キセル》の折檻《せっかん》に、またしても毎夜の憂きつとめ。死ぬといい消えるというが、この世の中にこの女の望み得べき幸福の絶頂なのである。と思えば先生の耳には本調子も二上《にあが》りも三下《さんさが》りも皆この世は夢じゃ諦《あきら》めしゃんせ諦めしゃんせと響くのである。されば隣りで唄《うた》う歌の文句の「夢とおもひて清心《せいしん》は。」といい「頼むは弥陀の御《お》ン誓ひ、南無阿弥陀仏々々々々々々。」というあたりの節廻しや三味線の手に至っては、江戸音曲中の仏教的思想の音楽的表現が、その芸術的価値においてまさに楽劇『パルシフヮル』中の例えば「聖金曜日」のモチイブなぞにも比較し得べきもののように思われるのであった。
[#7字下げ]四[#「四」は中見出し]
諦めるにつけ悟るにつけ、さすがはまだ凡夫《ぼんぷ》の身の悲しさに、珍々先生は昨日《きのう》と過ぎし青春の夢を思うともなく思い返す。ふとしたことから、こうして囲《かこ》って置くお妾《めかけ》の身の上や、馴初《なれそ》めのむかしを繰返して考える。お妾は無論芸者であった。仲之町《なかのちょう》で一時《いちじ》は鳴《なら》した腕。芸には達者な代り、全くの無筆《むひつ》である。稽古本《けいこぼん》で見馴れた仮名より外には何にも読めない明盲目《あきめくら》である。この社会の人の持っている諸有《あらゆ》る迷信と僻見《へきけん》と虚偽と不健康とを一つ残らず遺伝的に譲り受けている。お召《めし》の縞柄《しまがら》を論ずるには委《くわ》しいけれど、電車に乗って新しい都会を一人歩きする事なぞは今だに出来ない。つまり明治の新しい女子教育とは全く無関係な女なのである。稽古唄の文句によって、親の許さぬ色恋は悪い事であると知っていたので、初恋の若旦那とは生木《なまき》を割《さ》く辛《つら》い目を見せられても、ただその当座泣いて暮して、そして自暴酒《やけざけ》を飲む事を覚えた位のもの、別に天も怨《うら》まず人をも怨まず、やがて周囲から
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