の座敷には薄暗い上にも更に薄暗い床《とこ》の間《ま》に、極彩色《ごくさいしき》の豊国《とよくに》の女姿が、石州流《せきしゅうりゅう》の生花《いけばな》のかげから、過ぎた時代の風俗を見せている。片隅には「命《いのち》」という字を傘《かさ》の形のように繋《つな》いだ赤い友禅《ゆうぜん》の蒲団《ふとん》をかけた置炬燵《おきごたつ》。その後《うしろ》には二枚折の屏風《びょうぶ》に、今は大方《おおかた》故人となった役者や芸人の改名披露やおさらいの摺物《すりもの》を張った中に、田之助半四郎《たのすけはんしろう》なぞの死絵《しにえ》二、三枚をも交《ま》ぜてある。彼が殊更《ことさら》に、この薄暗い妾宅をなつかしく思うのは、風鈴《ふうりん》の音《ね》凉しき夏の夕《ゆうべ》よりも、虫の音《ね》冴《さ》ゆる夜長よりも、かえって底冷《そこびえ》のする曇った冬の日の、どうやら雪にでもなりそうな暮方《くれがた》近く、この一間《ひとま》の置炬燵に猫を膝にしながら、所在《しょざい》なげに生欠伸《なまあくび》をかみしめる時であるのだ。彼は窓外《まどそと》を呼び過ぎる物売りの声と、遠い大通りに轟き渡る車の響と、厠の向うの腐りかけた建仁寺垣《けんにんじがき》を越して、隣りの家《うち》から聞え出すはたき[#「はたき」に傍点]の音をば何というわけもなく悲しく聞きなす。お妾《めかけ》はいつでもこの時分には銭湯に行った留守のこと、彼は一人|燈火《あかり》のない座敷の置炬燵に肱枕《ひじまくら》して、折々は隙漏《すきも》る寒い川風に身顫《みぶる》いをするのである。珍々先生はこんな処にこうしていじけ[#「いじけ」に傍点]ていずとも、便利な今の世の中にはもっと暖かな、もっと明《あかる》い賑《にぎや》かな場所がいくらもある事を能《よ》く承知している。けれどもそういう明い晴やかな場所へ意気揚々と出しゃばるのは、自分なぞが先に立ってやらずとも、成功主義の物欲しい世の中には、そういう処へ出しゃばって歯の浮くような事をいいたがる連中が、あり余って困るほどある事を思返すと、先生はむしろ薄寒い妾宅の置炬燵にかじりついているのが、涙の出るほど嬉しく淋しく悲しく同時にまた何ともいえぬほど皮肉な得意を感ずるのであった。表の河岸通《かしどおり》には日暮と共に吹起る空《から》ッ風《かぜ》の音が聞え出すと、妾宅の障子はどれが動くとも知れず、ガタリガタリと妙に気力の抜けた陰気な音を響かす。その度々に寒さはぞくぞく襟元《えりもと》へ浸《し》み入る。勝手の方では、いっも居眠りしている下女が、またしても皿小鉢を破《こわ》したらしい物音がする。炭団《たどん》はどうやらもう灰になってしまったらしい。先生はこういう時、つくづくこれが先祖代々日本人の送り過越《すご》して来た日本の家の冬の心持だと感ずるのである。宝井其角《たからいきかく》の家にもこれと同じような冬の日が幾度《いくたび》となく来たのであろう。喜多川歌麿《きたがわうたまろ》の絵筆持つ指先もかかる寒さのために凍《こお》ったのであろう。馬琴《ばきん》北斎《ほくさい》もこの置炬燵の火の消えかかった果敢《はか》なさを知っていたであろう。京伝《きょうでん》一九《いっく》春水《しゅんすい》種彦《たねひこ》を始めとして、魯文《ろぶん》黙阿弥《もくあみ》に至るまで、少くとも日本文化の過去の誇りを残した人々は、皆おのれと同じようなこの日本の家の寒さを知っていたのだ。しかして彼らはこの寒さと薄暗さにも恨むことなく反抗することなく、手錠をはめられ板木《はんぎ》を取壊《とりこわ》すお上《かみ》の御成敗《ごせいばい》を甘受していたのだと思うと、時代の思想はいつになっても、昔に代らぬ今の世の中、先生は形ばかり西洋模倣の倶楽部《クラブ》やカフェーの媛炉《だんろ》のほとりに葉巻をくゆらし、新時代の人々と舶来の火酒《ウイスキー》を傾けつつ、恐れ多くも天下の御政事を云々《うんぬん》したとて何になろう。われわれ日本の芸術家の先天的に定められた運命は、やはりこうした置炬燵の肱枕より外《ほか》にはないというような心持になるのであった。

[#7字下げ]三[#「三」は中見出し]

 人種の発達と共にその国土の底に深くも根ざした思想の濫觴《らんしょう》を鑑《かんが》み、幾時代の遺伝的修養を経たる忍従棄権の悟《さと》りに、われ知らず襟《えり》を正《ただ》す折《おり》しもあれ。先生は時々かかる暮れがた近く、隣の家《うち》から子供のさらう稽古の三味線が、かえって午飯過《ひるめしす》ぎの真昼よりも一層|賑《にぎや》かに聞え出すのに、眠るともなく覚めるともなく、疲れきった淋しい心をゆすぶらせる。家《うち》の中はもう真暗になっているが、戸外《おもて》にはまだ斜にうつろう冬の夕日が残っているに違いない。ああ、三味線の音
前へ 次へ
全11ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング