万態をば、そのあらゆる場合を通じて尽《ことごと》くこれを秩序的に諳《そらん》じながら、なお飽きないほどの熱心なる観察者である。まず、忍び逢いの小座敷には、刎返《はねかえ》した重い夜具へ背をよせかけるように、そして立膝《たてひざ》した長襦袢《ながじゅばん》の膝の上か、あるいはまた船底枕《ふなぞこまくら》の横腹に懐中鏡を立掛けて、かかる場合に用意する黄楊《つげ》の小櫛《おぐし》を取って先ず二、三度、枕のとがなる鬢《びん》の後毛《おくれげ》を掻き上げた後《のち》は、捻《ねじ》るように前身《ぜんしん》をそらして、櫛の背を歯に銜《くわ》え、両手を高く、長襦袢の袖口《そでぐち》はこの時下へと滑ってその二の腕の奥にもし入黒子《いれぼくろ》あらば見えもやすると思われるまで、両肱《りょうひじ》を菱《ひし》の字なりに張出して後《うしろ》の髱《たぼ》を直し、さてまた最後には宛《さなが》ら糸瓜《へちま》の取手《とって》でも摘《つま》むがように、二本の指先で前髪の束《たば》ね目《め》を軽く持ち上げ、片手の櫛で前髪のふくらみを生際《はえぎわ》の下から上へと迅速に掻き上げる。髱留《たぼど》めの一、二本はいつも口に銜えているものの、女はこの長々しい熱心な手芸の間《あいだ》、黙ってぼんやり男を退屈さして置くものでは決してない。またの逢瀬《おうせ》の約束やら、これから外《ほか》の座敷へ行く辛《つら》さやら、とにかく寸鉄《すんてつ》人を殺すべき片言隻語《へんげんせきご》は、かえって自在に有力に、この忙しい手芸の間に乱発されやすいのである。先生は芝居の桟敷《さじき》にいる最中といえども、女が折々思出したように顔を斜めに浮かして、丁度仏画の人物の如く綺麗にそろえた指の平《ひら》で絶えず鬢《びん》の形を気にする有様をも見逃さない。さればいよいよ湯上りの両肌《りょうはだ》脱ぎ、家《うち》が潰《つぶ》れようが地面が裂けようが、われ関《かん》せず焉《えん》という有様、身も魂も打込んで鏡に向う姿に至っては、先生は全くこれこそ、日本の女の最も女らしい形容を示す時であると思うのである。幾世紀の洗練を経たる Alexandrine《アレキサンドリン》 十二音の詩句を以て、自在にミュッセをして巴里娘《パリイむすめ》の踊の裾《すそ》を歌わしめよ。われにはまた来歴ある一中節《いっちゅうぶし》の『黒髪』がある。黄楊《つげ》の小櫛《おぐし》という単語さえもがわれわれの情緒《じょうしょ》を動かすにどれだけ強い力があるか。其処《そこ》へ行くと哀れや、色さまざまのリボン美しといえども、ダイヤモンド入りのハイカラ櫛立派なりといえども、それらの物の形と物の色よりして、新時代の女子の生活が芸術的幻想を誘起し得るまでには、まだまだ多くの年月《ねんげつ》を経た後《のち》でなければならぬ。新時代の芸術の力をもっともっと沢山に借りた揚句《あげく》の果でなければならぬ。然《しか》るに已に完成しおわった江戸芸術によって、溢《あふ》るるまでその内容の生命を豊富にされたかかる下町の女の立居振舞《たちいふるま》いには、敢《あえ》て化粧の時の姿に限らない。春雨《はるさめ》の格子戸《こうしど》に渋《しぶ》蛇《じゃ》の目《め》開《ひら》きかける様子といい、長火鉢の向うに長煙管取り上げる手付きといい、物思う夕まぐれ襟《えり》に埋《うず》める頤《おとがい》といい、さては唯《ただ》風に吹かれる髪の毛の一筋、そら解《ど》けの帯の端《はし》にさえ、いうばかりなき風情《ふぜい》が生ずる。「ふぜい」とは何ぞ。芸術的洗練を経たる空想家の心にのみ味わるべき、言語にいい現し得ぬ複雑豊富なる美感の満足ではないか。しかもそれは軽く淡く快き半音|下《さが》った mineur《ミノウル》 の調子のものである。珍々先生は芸者上りのお妾の夕化粧をば、つまり生きて物いう浮世絵と見て楽しんでいるのである。明治の女子教育と関係なき賤業婦の淫靡《いんび》なる生活によって、爛熟した過去の文明の遠い※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《ささや》きを聞こうとしているのである。この僅かなる慰安が珍々先生をして、洋服を着ないでもすむ半日を、唯うつうつとこの妾宅に送らせる理由である。已に「妾宅」というこの文字《もんじ》が、もう何となく廃滅の気味を帯びさせる上に、もしこれを雑誌などに出したなら、定めし文芸|即《すなわち》悪徳と思込んでいる老人たちが例の物議を起す事であろうと思うと、なお更に先生は嬉しくて堪《たま》らないのである。
[#7字下げ]六[#「六」は中見出し]
お妾のお化粧がすむ頃には、丁度下女がお釜《かま》の火を引いて、膳立《ぜんだて》の準備をはじめる。この妾宅には珍々先生一流の趣味によって、食事の折には一切、新時代の料理屋または小待合《こまちあい》の座敷を聯
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