もいえない悲壮の神秘が潜《ひそ》んでいると断言しているのである。冬の闇夜《やみよ》に悪病を負う辻君《つじぎみ》が人を呼ぶ声の傷《いたま》しさは、直ちにこれ、罪障深き人類の止《や》みがたき真正《まこと》の嘆きではあるまいか。仏蘭西《フランス》の詩人 Marcel《マルセル》 Schwob《シュオッブ》 はわれわれが悲しみの淵に沈んでいる瞬間にのみ、唯の一夜、唯の一度われわれの目の前に現われて来るという辻君。二度巡り会おうとしても最《も》う会う事の出来ないという神秘なる辻君の事を書いた。「あの女たちはいつまでもわれわれの傍《そば》にいるものではない。あまりに悲しい身の上の恥かしく、長く留《とどま》っているに堪えられないからである。あの女たちはわれわれが涙に暮れているのを見ればこそ、面と向ってわれわれの顔を見上げる勇気があるのだ。われわれはあの女たちを哀れと思う時にのみ、彼女《かのおんな》たちを了解し得るのだ。」といっている。近松の心中物《しんじゅうもの》を見ても分るではないか。傾城《けいせい》の誠が金で面《つら》を張る圧制な大尽《だいじん》に解釈されようはずはない。変る夜ごとの枕に泣く売春婦の誠の心の悲しみは、親の慈悲妻の情《なさけ》を仇《あだ》にしたその罪の恐しさに泣く放蕩児の身の上になって、初めて知り得るのである。「傾城に誠あるほど買ひもせず」と川柳子《せんりゅうし》も已に名句を吐いている。珍々先生は生れ付きの旋毛曲《つむじまが》り、親に見放され、学校は追出され、その後は白浪物《しらなみもの》の主人公のような心持になってとにかくに強いもの、えばる[#「えばる」に傍点]ものが大嫌いであったから、自然と巧《たくま》ずして若い時分から売春婦には惚《ほ》れられがちであった。しかしこういう業《ごう》つくばりの男の事故《ことゆえ》、芸者が好きだといっても、当時|新橋《しんばし》第一流の名花と世に持囃《もてはや》される名古屋種《なごやだね》の美人なぞに目をくれるのではない。深川の堀割の夜深《よふけ》、石置場のかげから這出《はいだ》す辻君にも等しい彼《か》の水転《みずてん》の身の浅間《あさま》しさを愛するのである。悪病をつつむ腐《くさ》りし肉の上に、爛《ただ》れたその心の悲しみを休ませるのである。されば河添いの妾宅にいる先生のお妾も要するに世間並の眼を以て見れば、少しばかり甲羅《こうら》を経たるこの種類の安物たるに過ぎないのである。
[#7字下げ]五[#「五」は中見出し]
隣りの稽古唄《けいこうた》はまだ止《や》まぬ。お妾《めかけ》は大分化粧に念が入《い》っていると見えてまだ帰らない。先生は昔の事を考えながら、夕飯時《ゆうめしどき》の空腹《くうふく》をまぎらすためか、火の消えかかった置炬燵《おきごたつ》に頬杖《ほおづえ》をつき口から出まかせに、
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]変り行く末の世ながら「いにしへ」を、「いま」に忍ぶの恋草《こいぐさ》や、誰れに摘《つ》めとか繰返し、うたふ隣のけいこ唄、宵はまちそして恨みて暁と、聞く身につらきいもがりは、同じ待つ間の置炬燵、川風寒き※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子窓《れんじまど》、急ぐ足音ききつけて、かけた蒲団の格子外《こうしそと》、もしやそれかとのぞいて見れば、河岸《かし》の夕日にしよんぼりと、枯れた柳の影ばかり。
[#ここで字下げ終わり]
まだ帰って来ぬ。先生はもう一ツ、胸にあまる日頃の思いをおなじ置炬燵にことよせて、
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]|春水《しゅんすい》が手錠はめられ海老蔵《えびぞう》は、お江戸かまひの「むかし」なら、わしも定めし島流し、硯《すずり》の海の波風に、命の筆の水馴竿《みなれざお》、折れてたよりも荒磯の、道理引つ込む無理の世は、今もむかしの夢のあと、たづねて見やれ思ひ寝の、手枕《たまくら》寒し置炬燵。
[#ここで字下げ終わり]
とやらかした。小走《こばし》りの下駄《げた》の音。がらりと今度こそ格子が明《あ》いた。お妾は抜衣紋《ぬきえもん》にした襟頸《えりくび》ばかり驚くほど真白に塗りたて、浅黒い顔をば拭き込んだ煤竹《すすだけ》のようにひからせ、銀杏返《いちょうがえ》しの両鬢《りょうびん》へ毛筋棒《けすじ》を挿込んだままで、直《す》ぐと長火鉢《ながひばち》の向うに据えた朱の溜塗《ためぬり》の鏡台の前に坐った。カチリと電燈を捻《ね》じる響と共に、黄《きいろ》い光が唐紙《からかみ》の隙間にさす。先生はのそのそ置炬燵から次の間へ這出《はいだ》して有合《ありあ》う長煙管《ながギセル》で二、三|服《ぷく》煙草を吸いつつ、余念もなくお妾の化粧する様子を眺めた。先生は女が髪を直す時の千姿
前へ
次へ
全11ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング