いう庭園的の国土に生ずる秩序なき、淡泊なる、可憐なる、疲労せる生活及び思想の、弱く果敢き凡ての詩趣を説明するものであろう。

[#7字下げ]八[#「八」は中見出し]

 然り、多年の厳しい制度の下《もと》にわれらの生活は遂に因襲的に活気なく、貧乏臭くだらしなく、頼りなく、間の抜けたものになったのである。その堪《た》えがたき裏淋《うらさび》しさと退屈さをまぎらすせめてもの手段は、不可能なる反抗でもなく、憤怒怨嗟《ふんぬえんさ》でもなく、ぐっとさばけて、諦《あきら》めてしまって、そしてその平々凡々極まる無味単調なる生活のちょっとした処に、ちょっとした可笑味《おかしみ》面白味を発見して、これを頓智的な極めて軽い芸術にして嘲《あざけ》ったり笑ったりして戯《たわむ》れ遊ぶ事である。桜さく三味線の国は同じ専制国でありながら支那や土耳古《トルコ》のように金と力がない故|万代不易《ばんだいふえき》の宏大なる建築も出来ず、荒凉たる沙漠や原野がないために、孔子《こうし》、釈迦《しゃか》、基督《キリスト》などの考え出したような宗教も哲学もなく、また同じ暖い海はありながらどういう訳か希臘《ギリシヤ》のような芸術も作らずにしまった。よし一つや二つ何か立派などっしり[#「どっしり」に傍点]した物があったにしても、古今に通じて世界第一無類|飛切《とびき》りとして誇るには足りないような気がする。然らば何をか最も無類飛切りとしようか。貧乏臭い間の抜けた生活のちょっとした処に可笑味《おかしみ》面白味を見出して戯れ遊ぶ俳句、川柳、端唄《はうた》、小噺《こばなし》の如き種類の文学より外には求めても求められまい。論より証拠、先ず試みに『詩経』を繙《ひもと》いても、『唐詩選』、『三体詩』を開いても、わが俳句にある如き雨漏りの天井、破《やぶ》れ障子《しょうじ》、人馬鳥獣の糞《ふん》、便所、台所などに、純芸術的な興味を托した作品は容易に見出されない。希臘《ギリシヤ》羅馬《ローマ》以降|泰西《たいせい》の文学は如何ほど熾《さかん》であったにしても、いまだ一人《いちにん》として我が俳諧師|其角《きかく》、一茶《いっさ》の如くに、放屁や小便や野糞《のぐそ》までも詩化するほどの大胆を敢《あえ》てするものはなかったようである。日常の会話にも下《しも》がかった事を軽い可笑味《ユウモア》として取扱い得るのは日本文明固有の特徴と
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