仕度をしてくれる時のみではない。長火鉢の傍《そば》にしょんぼりと坐って汚《よご》れた壁の上にその影を映させつつ、物静に男の着物を縫っている時、あるいはまた夜《よる》の寝床に先ず男を寝かした後《のち》、その身は静に男の羽織着物を畳んで角帯《かくおび》をその上に載せ、枕頭《まくらもと》の煙草盆の火をしらべ、行燈《あんどう》の燈心《とうしん》を少しく引込め、引廻した屏風《びょうぶ》の端《はし》を引直してから、初めて片膝を蒲団の上に載せるように枕頭に坐って、先ず一服した後《あと》の煙管《キセル》を男に出してやる――そういう時々先生はお妾に対して口には出さない無限の哀傷と無限の感謝を覚えるのである。無限の哀傷は恐ろしい専制時代の女子教育の感化が遺伝的に下町の無教育な女の身に伝《つたわ》っている事を知るがためである。無限の感謝は新時代の企てた女子教育の効果が、専制時代のそれに比して、徳育的にも智育的にも実用的にも審美的にも一つとして見るべきもののない実例となし得るがためである。無筆のお妾は瓦斯《ガス》ストーヴも、エプロンも、西洋綴《せいようとじ》の料理案内という書物も、凡《すべ》て下手《へた》の道具立《どうぐだて》なくして、巧に甘《うま》いものを作る。それと共に四季折々の時候に従って俳諧的詩趣を覚えさせる野菜魚介の撰択に通暁している。それにもかかわらず私はもともと賤しい家業をした身体《からだ》ですからと、万事に謙譲であって、いかほど家庭をよく修め男に満足と幸福を与えたからとて、露ほどもそれを己れの功としてこれ見よがしに誇る心がない。今時《いまどき》の女学校出身の誰々さんのように、夫の留守に新聞雑誌記者の訪問をこれ幸い、有難からぬ御面相の写真まで取出して「わらわの家庭」談などおっぱじめるような事は決してない。かく口汚く罵るものの先生は何も新しい女権主義《フェミニズム》を根本から否定しているためではない。婦人参政権の問題なぞもむしろ当然の事としている位である。しかし人間は総じて男女の別なく、いかほど正しい当然な事でも、それをば正当なりと自分からは主張せずに出しゃばらずに、何処までも遠慮深くおとなしくしている方がかえって奥床《おくゆか》しく美しくはあるまいか。現代の新婦人連は大方これに答えて、「そんなお人好《ひとよし》な態度を取っていたなら増々《ますます》権利を蹂躙《じゅうりん》され
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