おぐし》という単語さえもがわれわれの情緒《じょうしょ》を動かすにどれだけ強い力があるか。其処《そこ》へ行くと哀れや、色さまざまのリボン美しといえども、ダイヤモンド入りのハイカラ櫛立派なりといえども、それらの物の形と物の色よりして、新時代の女子の生活が芸術的幻想を誘起し得るまでには、まだまだ多くの年月《ねんげつ》を経た後《のち》でなければならぬ。新時代の芸術の力をもっともっと沢山に借りた揚句《あげく》の果でなければならぬ。然《しか》るに已に完成しおわった江戸芸術によって、溢《あふ》るるまでその内容の生命を豊富にされたかかる下町の女の立居振舞《たちいふるま》いには、敢《あえ》て化粧の時の姿に限らない。春雨《はるさめ》の格子戸《こうしど》に渋《しぶ》蛇《じゃ》の目《め》開《ひら》きかける様子といい、長火鉢の向うに長煙管取り上げる手付きといい、物思う夕まぐれ襟《えり》に埋《うず》める頤《おとがい》といい、さては唯《ただ》風に吹かれる髪の毛の一筋、そら解《ど》けの帯の端《はし》にさえ、いうばかりなき風情《ふぜい》が生ずる。「ふぜい」とは何ぞ。芸術的洗練を経たる空想家の心にのみ味わるべき、言語にいい現し得ぬ複雑豊富なる美感の満足ではないか。しかもそれは軽く淡く快き半音|下《さが》った mineur《ミノウル》 の調子のものである。珍々先生は芸者上りのお妾の夕化粧をば、つまり生きて物いう浮世絵と見て楽しんでいるのである。明治の女子教育と関係なき賤業婦の淫靡《いんび》なる生活によって、爛熟した過去の文明の遠い※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《ささや》きを聞こうとしているのである。この僅かなる慰安が珍々先生をして、洋服を着ないでもすむ半日を、唯うつうつとこの妾宅に送らせる理由である。已に「妾宅」というこの文字《もんじ》が、もう何となく廃滅の気味を帯びさせる上に、もしこれを雑誌などに出したなら、定めし文芸|即《すなわち》悪徳と思込んでいる老人たちが例の物議を起す事であろうと思うと、なお更に先生は嬉しくて堪《たま》らないのである。
[#7字下げ]六[#「六」は中見出し]
お妾のお化粧がすむ頃には、丁度下女がお釜《かま》の火を引いて、膳立《ぜんだて》の準備をはじめる。この妾宅には珍々先生一流の趣味によって、食事の折には一切、新時代の料理屋または小待合《こまちあい》の座敷を聯
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