いて学んだ。それから父の手紙を持って岩渓裳川《いわたにしょうせん》先生の門に入り、日曜日ごとに『三体詩』の講義を聴いたのである。裳川先生はその頃文部省の官吏で市ヶ谷見附に近い四番町の裏通りに住んでおられた。玄関から縁側《えんがわ》まで古本が高く積んであったのと、床《とこ》の間《ま》に高さ二尺ばかりの孔子の坐像と、また外に二つばかり同じような木像が置かれてあった事を、わたくしは今でも忘れずにおぼえている。
わたくしは裳川先生が講詩の席で、始めて亡友|井上唖々《いのうえああ》君を知ったのである。
その頃作った漢詩や俳句の稿本は、昭和四年の秋感ずるところがあって、成人の後作ったいろいろの原稿と共に、わたくしは悉《ことごと》くこれを永代橋《えいたいばし》の上から水に投じたので、今記憶に残っているものは一つもない。
わたくしは或雑誌の記者から、わたくしの少年時代の事を問われたことがあったので、後にその事を思出してこの記を書いて見たのである。しかし過去を語るのは、覚めた後前夜の夢を尋ねて、これを人に向って説くのと同じである。
鴎外先生が『私が十四、五歳の時』という文に、「過去の生活は食ってしまった飯のようなものである。飯が消化せられて生きた汁になって、それから先の生活の土台になるとおりに、過去の生活は現在の生活の本《もと》になっている。またこれから先の、未来の生活の本になるだろう。しかし生活しているものは、殊に体が丈夫で生活しているものは、誰も食ってしまった飯の事を考えている余裕はない。」と言われている。全くその通りである。
いま現在の生活からその土台になっている過去の生活を正確に顧みて、これを誤りなく記述する事は容易でない。糞尿《ふんにょう》を分析すれば飲食した物の何であったかはこれを知ることが出来るが、食った刹那《せつな》の香味に至っては、これを語って人をして垂涎《すいぜん》三尺たらしむるには、優れたる弁舌が入用になるわけである。そして、わたくしにはこの弁舌がないのであった。
[#地から2字上げ]乙亥《いつがい》正月記
底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月9日作成
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