日が始めてであった。家を離れて一人病院の一室に夢を見るのもまた始めてである。東京の家に帰ったのは梅雨《つゆ》も過ぎて庭の樹に蝉の声を聞くころであった。されば始めて逢う他郷の暮春と初夏との風景は、病後の少年に幽愁の詩趣なるものを教えずにはいなかったわけである。
病院は町はずれの小高い岡の中腹に建てられていたので、病室の窓からも寝ながらにして、曇った日にも伊豆の山影を望み、晴れた日には大嶋の烟《けむり》をも見ることができた。庭つづきになった後方《うしろ》の丘陵は、一面の蜜柑畠《みかんばたけ》で、その先の山地に茂った松林や、竹藪の中には、終日鶯と頬白《ほおじろ》とが囀《さえず》っていた。初め一月《ひとつき》ばかりの間は、一日に二、三時間しか散歩することを許されていなかったので、わたくしはあまり町の方へは行かず、大抵この岡の上の松林を歩み、木の根に腰をかけて、箱根|双子山《ふたごやま》の頂きを往来する雲を見て時を移した。雲の往来《ゆきき》するにつれて山の色の変るのが非常に物珍しく思われたのであった。病室にごろごろしている間は、貸本屋の持って来る小説を乱読するより外に為すことはない。
博文館の『文芸|倶楽部《クラブ》』はその年の正月『太陽』と同時に第一号を出したので、わたくしは確にこれをも読んだはずであるが、しかし今日記憶に残っているものは一つもない、帝国文庫の『京伝傑作集』や一九の『膝栗毛』、または円朝の『牡丹燈籠《ぼたんどうろう》』や『塩原多助』のようなものは、貸本屋の手から借りた時、披《ひら》いて見たその挿絵が文章よりもかえって明かに記憶に留《とどま》っている。
その頃発行せられていた雑誌の中で、最も高尚でむずかしいものとして尊ばれていたのは、『国民の友』、『しがらみ草紙』、『文学界』の三種であった。まだ病気にならぬ頃、わたくしは同級の友達と連立って、神保町の角にあった中西屋という書店に行き、それらの雑誌を買った事だけは覚えているが、記事については何一つ記憶しているものはない。中西屋の店先にはその頃武蔵屋から発行した近松の浄瑠璃、西鶴の好色本が並べられてあったが、これも表紙を見ただけで買いはしなかった。わたくしが十六、七の時の読書の趣味は極めて低いものであった。
四カ月ほど小田原の病院にいる間読んだものは、まず講談筆記と馬琴の小説に限られていたといってもよい。しかし後年芝居を見るようになってから、講談筆記で覚えた話の筋道は非常に役に立った。
東京の家からは英語の教科書に使われていたラムの『沙翁《さおう》物語』、アービングの『スケッチブック』とを送り届けてくれたので、折々字引と首引《くびッぴき》をしたこともないではなかった。
わたくしは今日の中学校では英語を教えるのに如何なる書物を用いているか全く不案内である。中学校で英語を教えることは有害無益だという説もだんだん盛になって来るようである。思出すままに、わたくしたちが三、四十年前中学校でよんだ英文の書目を挙げて見るのもまた一興であろう。その頃、英語は高等小学校の三、四年頃から課目に加えられていた。教科書は米国の『ナショナル・リーダー』であった。中学校に進んで、一、二年の間はその頃新に文部省で編纂した英語|読本《とくほん》が用いられていたが書名は今覚えていない。この読本は英国人の教師が生徒の発音を正しくするために用いたので、訳読には日本人の教師が別の書物を用いた。その中で記憶に残っているものは、マコーレーのクライブの伝。パアレーの『万国史』。フランクリンの『自叙伝』。ゴールドスミスの『ウェークフィルドの牧師』。それからサー・ロジャス・デカバリイ。巴里屋根裏の学者の英訳本などである。中村敬宇《なかむらけいう》先生が漢文に訳せられた『西国立志編《さいごくりっしへん》』の原書もたしか読んだように思っている。
中学を出て、高等学校の入学試験を受ける準備にと、わたくしたちは神田錦町《かんだにしきちょう》の英語学校へ通った時、始めてヂッケンスの小説をよんだ。
話は前へもどって、わたくしは七月の初東京の家に帰ったが、間もなく学校は例年の通り暑中休暇になるので、家の人たちと共に逗子《ずし》の別荘に往《ゆ》き九月になって始めて学校へ出た。しかしこれまで幾年間同じ級にいた友達とは一緒になれず、一つ下の級の生徒になったので、以前のように学業に興味を持つことが出来ない。休課の時間にもわたくしは一人運動場の片隅で丁度その頃覚え初めた漢詩や俳句を考えてばかりいるようになった。
根岸派の新俳句が流行し始めたのは丁度その時分の事で、わたくしは『日本』新聞に連載せられた子規《しき》の『俳諧大要』の切抜を帳面に張り込み、幾度《いくたび》となくこれを読み返して俳句を学んだ。
漢詩の作法は最初父に就《つ》
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