むるものがあった。
わたしはしばしば家を移したが、その度ごとに梔子《くちなし》一株を携え運んで庭に植える。啻《ただ》に花を賞するがためばかりではない。その実を採って、わたしは草稿の罫紙《けいし》を摺《す》る顔料となすからである。梔子の実の赤く熟して裂け破れんとする時はその年の冬も至日《しじつ》に近い時節になるのである。傾きやすき冬日の庭に塒《ねぐら》を急ぐ小禽《ことり》の声を聞きつつ梔子の実を摘《つ》み、寒夜孤燈の下に凍《こご》ゆる手先を焙《あぶ》りながら破れた土鍋《どなべ》にこれを煮る時のいいがたき情趣は、その汁を絞って摺った原稿罫紙に筆を執る時の心に比して遥に清絶であろう。一は全く無心の間事《かんじ》である。一は雕虫《ちょうちゅう》の苦、推敲《すいこう》の難、しばしば人をして長大息《ちょうたいそく》を漏らさしむるが故である。
今秋不思議にも災禍を免《まぬか》れたわが家《や》の庭に冬は早くも音ずれた。筆を擱《お》いてたまたま窓外を見れば半庭の斜陽に、熟したる梔子|燃《もゆ》るが如く、人の来って摘むのを待っている……。
[#地から2字上げ]大正十二年|癸亥《きがい》十一月稿
前へ
次へ
全16ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング