《とも》にする作家でなければならない。
江戸時代にあって、為永春水《ためながしゅんすい》その年五十を越えて『梅見の船』を脱稿し、柳亭種彦《りゅうていたねひこ》六十に至ってなお『田舎源氏』の艶史を作るに倦《う》まなかったのは、啻《ただ》にその文辞の才|能《よ》くこれをなさしめたばかりではなかろう。
四
築地本願寺畔の僑居《きょうきょ》に稿を起したわたしの長篇小説はかくの如くして、遂に煙管《キセル》の脂《やに》を拭う反古《ほご》となるより外、何の用をもなさぬものとなった。
しかしわたしはこれがために幾多の日子《にっし》と紙料とを徒費したことを悔《く》いていない。わたしは平生《へいぜい》草稿をつくるに必ず石州製の生紙《きがみ》を選んで用いている。西洋紙にあらざるわたしの草稿は、反古となせば家の塵《ちり》を掃《はら》うはたきを作るによろしく、揉《も》み柔《やわら》げて厠《かわや》に持ち行けば浅草紙《あさくさがみ》にまさること数等である。ここに至って反古の有用、間文字《かんもじ》を羅列したる草稿の比ではない。
わたしは平生文学を志すものに向って西洋紙と万年筆とを用うること莫《なか》れと説くのは、廃物利用の法を知らしむる老婆心に他ならぬのである。
往時、劇場の作者部屋にあっては、始めて狂言作者の事務を見習わんとするものあれば、古参の作者は書抜の書き方を教ゆるに先だって、まず見習をして観世捻《かんぜより》をよらしめた。拍子木《ひょうしぎ》の打方を教うるが如きはその後のことである。わたしはこれを陋習《ろうしゅう》となして嘲《あざけ》った事もあったが、今にして思えばこれ当然の順序というべきである。観世捻をよる事を知らざれば紙を綴《と》ずることができない。紙を綴ることを知らざれば書抜を書くも用をなさぬわけである。事をなすに当って設備の道を講ずるは毫《ごう》も怪しむに当らない。或人の話に現時|操觚《そうこ》を業となすものにして、その草稿に日本紙を用うるは生田葵山《いくたきざん》子とわたしとの二人のみだという。亡友|唖々《ああ》子もまたかつて万年筆を手にしたことがなかった。
千朶山房《せんださんぼう》の草稿もその晩年『明星』に寄せられたものを見るに無罫《むけい》の半紙《はんし》に毛筆をもって楷行を交えたる書体、清勁暢達《せいけいちょうたつ》、直にその文を思わし
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