向島
永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)隅田川《すみだがわ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎年|堤《つつみ》の
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隅田川《すみだがわ》の水はいよいよ濁りいよいよ悪臭をさえ放つようになってしまったので、その後わたくしは一度も河船には乗らないようになったが、思い返すとこの河水も明治大正の頃には奇麗《きれい》であった。
その頃、両国《りょうごく》の川下《かわしも》には葭簀張《よしずばり》の水練場《すいれんば》が四、五軒も並んでいて、夕方近くには柳橋《やなぎばし》あたりの芸者が泳ぎに来たくらいで、かなり賑《にぎや》かなものであった。思い返すと四、五十年もむかしの事で、わたくしもこの辺の水練場で始めて泳ぎを教えられたのであった。世間ではまだ鎌倉あたりへ別荘を建てて子弟の遊場をつくるような風習がなかった。尋常中学へ這入《はい》って一、二年過ぎた頃かと思う。季節が少し寒くなりかかると、泳げないから浅草橋あたりまで行って釣舟屋の舟を借り、両国から向嶋《むこうじま》、永代《えいたい》から品川の砲台あたりまで漕ぎ廻ったが、やがて二、三年過るとその興味も追々他に変じて、一ツ舟に乗り合せた学校友達とも遠ざかり、中には病死したものもあるが、月日と共にその名さえ忘れてしまって、思出すことさえできないのがある。
その頃わたくしの家は生れた小石川《こいしかわ》から飯田町《いいだまち》へ越していたので、何かの折、その辺を歩き過る時、ぽつりぽつりと前後なくその頃の事が思い出される。昨夜見た夢を覚めた後に思返すようなものだ。
浅草も今戸橋場《いまどはしば》あたりの河岸である。河水に浮べた舟から見ると、別荘のような広い構えの屋敷が幾軒となく並んでいて、いずれも石河岸から流れの上に桟橋《さんばし》を浮べている。われわれはそういう桟橋に漕いでいるボートをつないで弁当を食べたり腕のつかれを休めたりしたものであるが、或日或屋敷の桟橋へ出て釣をしている学生を見たが、われわれと年頃が同じくらいなので、一度ならず二度ならず、度重《たびかさな》るにつれて、別に理由《わけ》もなく互に声でもかけ合って見たいような気になっていた。する中《うち》或日の事、学生の釣り上げた鮒《ふな》かと思う大きな魚がわれわれのボートに飛び込んだ。学生は大きな声を出してわれわれを呼んだ。わたくしはその魚を押えて学生の立っている桟橋へ舟をつけたので、すっかり心安くなり、その後われわれが弁当なぞ食べているのを見たりすると、土瓶《どびん》に暖い茶を入れて持って来てくれるようなこともあった。
月日《つきひ》は過ぎて行く。いつかわれわれは舟遊びにも飽きて舟を借りにも行かなくなってから、また更に月日がたつ。尋常中学を出て専門の学校も卒業した後、或会社に雇われて亜米利加《アメリカ》へ行った。そして或日曜日の午後《ひるすぎ》、紐育《ニューヨーク》中央公園のベンチで新聞を読んでいた時、わたくしの顔を見て、立止ると共にわたくしの名を呼んだ紳士があった。誰あろう。幾年か前浅草橋場の岸の桟橋で釣をしていたその人である。少年の頃の回想はその時いかに我々を幸福にしたか知れない。
橋場辺の岸から向岸を見ると、帝国大学のペンキに塗られた艇庫《ていこ》が立っていて、毎年|堤《つつみ》の花の咲く頃、学生の競漕《きょうそう》が行われて、艇庫の上のみならず、そのあたり一帯が競漕を見にくる人で賑かになる。堤の上に名物《めいぶつ》言問団子《ことといだんご》を売る店があり、堤の桜の由来を記した高い石碑が立っていたのも、その辺であったと思う。団子屋の前を歩み過ぎて、堤から右手へ降りて行くと静かな人家の散在している町へ出る。
西洋から帰って来てまだ間もない頃のことである。以前日本にいた頃、柳橋で親しくなった女から、わたくしは突然手紙を貰い、番地を尋ねて行くと、昔から妾宅《しょうたく》なぞの多くある堤下の静な町である。
その頃はやっと三十を越すか越さない身の上の事。すぐさま女をさそい出して浅草公園へ夕飯をたべに行った。女は暫《しばら》くして曳舟通《ひきふねどおり》へ引移ったが、いずれにしても山の手から下町へ出て隅田の水を渡って逢いに行くのがいかにも詩のように美しく思われた。隅田の水はまだ濁らず悪臭も放たず清く澄んでいたので渡船《わたしぶね》で河を越す人の中には、舷《ふなべり》から河水で手を洗うものさえあった。
曳舟まで出て見ると、場末の町つづきになって百花園《ひゃっかえん》も遠くはない。百花園から堀切《ほりきり》の菖蒲園《しょうぶえん》も近くなって来る。堀切のあたりは放水路の流がまだ出来ない時代には樹木の繁った間に小川が流れ込んでいた全くの田園で、菖蒲を植えた庭も四、五カ処はあって、いずれも風流を喜ぶ人にはその名を知られていたが、田が埋められて町になると、今では一、二カ処しか残っていず、しかも割合に高い入場料をさえ払わねばならないようになってしまった。
向嶋も今では瓢箪《ひょうたん》を下げた風流人の杖を曳く処ではなく、自動車を飛《とば》して工場の製作物を見に行く処であろう。
底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月8日作成
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